まずは最初の目的地である "満福寺" へ向かうため、江ノ電「腰越駅」までの乗車です。

 民家の脇をすり抜けるように走り抜け、
 腰越駅到着直前には路面電車のように道路上で車と併走したり、
 江ノ電ならではの光景を満喫しながら...腰越駅で下車します。




[ 史跡・その一 "満福寺" ]


 

 腰越駅前の満福寺案内板。

 これを見た瞬間...とうとうやって来たんだ!と感慨深いものがありました。

  ・満福寺=源義経が書いた嘆願状(俗にいう腰越状)の下書きが残されているお寺

 高校の時、源平に興味を持ちその中でも特に義経が好きになりいっぱいいっぱい勉強しました。
 本を読んだりドラマを見たり...自分なりに年表を作ったり...
 それから13年、とうとう憧れの地であり念願の地である鎌倉。そして満福寺へ!やっと想いが叶いました。

 

 駅から歩くこと数分...この場所にたどり着きます道の突き当たりに憧れの満福寺が!

 右の写真は "義経腰越状旧跡 満福寺" の石碑です。

 

 お寺の目の前を江ノ電が走っています。
 江ノ電はこの写真のように民家の間を走っている区間が多々ありました。

 

 踏切を渡るとすぐお寺です。
 目の前にしてみると思っていたより小さなお寺でした。

 はやる気持ちを抑えながら見えてくるお寺に感激...

 その昔、今から約800年前の世...
 ここに義経がいたのかと思うと、もう気持ちは爆発しそうなぐらい高ぶっています...
 現代では小説や資料などでしか当時の事は分かりませんが、その同じ場所に立っている。

 もうそれだけで感激です。

 

 これが満福寺の本堂です。境内が狭かったからか、その姿はとても大きく見えました。

 

 左の写真は本堂に掛かっている寺名額。
 右の写真は本堂の頭上にあった彫刻で義経と弁慶が彫られていて見事なものでした。



 そして...いよいよお寺の中へ入ります。
 上の本堂の写真左隅に見えているのが入り口です。

 とりあえず目指すは当然!腰越状!

 友人が先に見つけたのですが、ガラスケースの中に展示してありました。
 ガイドブックには [拝観要依頼] と書いてあったので、あっさり見れたことにちょっと以外...
 寺務所の人も何も言わないので勝手にあがっていいんだろうなぁと思い、腰越状の前へ。

 

 これが腰越状(義経の書いた嘆願状)です。

 ガラスケースに入っていてそこに蛍光灯の光が写っているので写真としてはあまり良くないかも知れませんが...

 そもそも鎌倉へはこの腰越状を見に来たと言ってもいいぐらいでしたから。
 何が書いてあるかなんてよく分からないけど義経のもの!という事に...もう...大・感・激...
 しばらくこの前で立ち止まり見入っていました。


 義経が腰越状を書いた理由は...というより書かざるをえなかった理由は...

  "一ノ谷の合戦" の戦功で、
  義経は「検非遺使左衛門尉(けびいしさえもんのじょう)」という官職を後白河法皇より推挙されます。
  この官位を授かるにあたり総大将 "頼朝" の許しを得ずに勝手に官位を受けようとした義経でしたが、
  家来たちの助言もあり官位は授からずに辞退します。

  京では平家追討の功績者として歓迎されていた義経でしたが、
  その立場は鎌倉にいる頼朝の代官というものでしたので、決して頼朝にはいい印象ではありません。
  何事にも先ずは総大将の許しを得てから、というのが筋でした。
  この辺りが後白河法皇と頼朝の間で板挟みのようになり、苦労する人生を歩む事になるのです。

  さらに "屋島の合戦" 時、義経は先の官位問題で最初は派遣されず、範頼だけが戦いへ出ていきました。
  が、あまりにも範頼の戦いが下手なために義経は仕方なくですが頼朝の命を受け戦いに出ます。
  そこへあとから頼朝の家来1万の軍が援軍としてやってきますが、
  いくさ奉行 "梶原景時" がことごとく義経と反発しあい、
  難波から屋島へ向かう日、天気は嵐だったため梶原景時軍は発とうとしませんでした。
  義経は手勢150人を連れ嵐の中でしたが先に屋島へ発ち平氏を追い払います。

  その直後、梶原景時軍がやってきましたが後の祭りでした。
  なんとも間抜けな話ですが頭にきた梶原景時は、
  自分のことを棚に上げて頼朝に嘘の戦功や義経の悪口を報告します。
  家臣には嫌われたくないこともあり、義経の勝手な振る舞いを嫌っていることからも、
  頼朝は梶原景時の報告を全て鵜呑みにして信じてしまいます。

  その後、壇ノ浦で平家を滅亡させ大手柄をたてた義経は、
  後白河法皇より伊予守に命ぜられ京で厚くもてなしを受けます。
  従四位にも位置していたので、その出世を頼朝が許しませんでした。
  そして京での厚遇もこと細かく梶原景時が告げ口していました。

  たび重なる勝手な振る舞いに頼朝はとうとう義経を討つことを考えはじめます。
  奥州とも手を組んでいた義経がもし自分に謀反を企てたりしたら...そんなことは全くなかったのですが、
  気の弱い頼朝は妄想も激しくあらぬ事ばかり考えるようになりました。

  そして義経は頼朝との仲たがいを知り、
  勘違いだということを証明するために鎌倉へ向かいますが...

  この腰越の満福寺で足止めされてしまいました。

  そこで義経は衷情を訴えた嘆願状を書いたのです。
  がこれも無視され鎌倉入りは拒否されました。

  この時書いた嘆願状の下書きが現在残っているものなのです。
  清書は弁慶が書いたといわれてます。

  追い詰められた義経はその後、
  態勢を立て直すべく九州へ逃れようとしますが、
  大物の浦(現在の兵庫県尼崎市)で嵐に遭い船が沈み、
  吉野山に逃れますがここでも追われて奥州へ逃れます。

  そして頼朝の追討軍と戦いますが力及ばず義経は自害し果てるのです。

 

 そして腰越状の前に置いてあった記念スタンプを押しました。

 

 腰越状草案のいわれ。の説明書きなどもあり...

  腰越状草案のいわれ

 腰越状を草案するとき弁慶が墨をすっていると草むらでこおろぎがしきりと鳴いていた。
 そこで弁慶がやめろと叫ぶと、こおろぎはぴたりと鳴きやみ境内は静かになったという。
 そのため、いまでも、この境内ではころぎが鳴かないと伝えられる。

 

 その後本堂へ。

 素晴らしかったのは鎌倉彫のふすま絵です。
 義経の主な一生が描かれていました、それはもう壮観!

 「静御前との吉野での別れ」 の場面。

 義経主従が壇ノ浦の合戦後、
 頼朝との不仲から追われて奥州へ逃れる際、
 静もついていくと言い張るのですが、この時...静のお腹には義経の子供がいました。
 無事に子供を産んでほしいと静だけは京に引き返させたのです。
 泣く泣く静は京へと戻りますが、途中吉野山中で同行の仲間に見捨てられ一人きりのところを、
 僧に見つかり京へ引き戻されて、その後鎌倉へつれて行かれてしまいます。
 鎌倉では鶴ヶ岡八幡宮の舞殿で静が舞った話は有名です(これはあとで舞殿の紹介の時にでも)

 この吉野が義経・静の今生の別れとなってしまうのです。

 

 これが 「腰越状を書いている義経」 のふすま絵。

 

 左のふすま絵は 「恋い慕う義経を追いかける静」 です。
 吉野山で別れてもなお、その恋は心の中で消えることはなく義経を慕い続けました。
 その想いがどれ程のものだったか...時代に翻弄された悲恋の物語です...

 右は 「雪の逃避行、奥州へ逃れる義経主従」 です。
 鎌倉入りを拒否された主従が京へ戻り、またここも追われるようにして逃れていきました。
 "勧進帳" の話にも出てくる山伏姿に変装した義経が一番左に描かれています。

 

 これが個人的には一番感動した絵です。

 奥州・衣川での弁慶の死の場面なのですが...
 敵の矢が何本も何本も体に突き刺さりながらも敵に突入していき...
 「我、死して不動明王とならん」 と言った弁慶の死に様が見事に描かれていました。

 不動明王は仏像の中で一番好きなのでこの絵はとても印象深いものでした。

 この "衣川の合戦" 時、
 義経主従で残っていたのは20人ほどだったと覚えています。
 源義経・武蔵坊弁慶を筆頭に最後まで頼朝の命による義経追討軍と戦いましたが、
 名将・源義経といえども多勢の軍を前にしてはどうしようもありませんでした。

 31歳でこの世に別れを告げ、歴史の表舞台に立ったのはわずか10年足らず...

 奇襲の名手・戦術の名手といわれた源義経をますます好きになった満福寺参拝でした。



 一番奥の部屋には記帳場があり名前を書きました。

 ふと、部屋の天井を見上げると一面に龍の彫刻が!これまたすごい絵です。
 今にも飛んでいきそうな凄まじい迫力でした。




 それから本堂を後にして他の部屋も見てまわりました。

 奥の部屋には鎧が飾ってあり...まさか義経のものじゃないとは思うけど...胸の笹竜胆がいいですね。
 源氏の家紋は笹竜胆。昔は自分の家紋が笹竜胆であればどれだけ良かったか...なんて思った時期もありました。



 ここで大体一通り見てまわったので満福寺のお守りを買いました。

 阿弥陀如来 亥の年の御守を。



 このあと庭へ。

 左:「弁慶の腰掛石」 右:「弁慶の手玉石」 を見て、本堂でお参りをしました。

 腰掛石は文字通り弁慶が腰を降ろしたといわれる石で、
 手玉石は弁慶が片手で軽々とお手玉のように持ち上げたといわれる石です。

 

 本堂の裏には 「義経の手洗い井戸」 というのもありました。

 右の写真の穴の底に水があり、魚がいました。水はちょっと汚かったけど...
 ここで義経が手を洗ったのか、と、歴史のロマンを想うのもなかなかいいものでした。


 そしてこれで満福寺参拝が終わりました。
 めいいっぱい見たのでとりあえず思い残すことはありません。


 再び腰越駅に戻り江ノ電に乗りました。

 次はいよいよ江ノ電で鎌倉まで行きます。

 


それでは次のレポートへ移ります。

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