鶴ヶ岡八幡宮はまた後で来るとして、

 先に "大蔵幕府跡"(初代鎌倉幕府跡)を見に行きます。


 鎌倉は細い道が多い割には交通量も多いです。
 けれども、実際にこの町に来てみて歩いていると、
 町のざわめきと各地に点在する神社仏閣...一歩路地に入れば静けさが...

 動と静の入り交じる史都...なんてのもいいですね。




[ 史跡・その三 "大蔵幕府跡" ]


 

 そして鶴ヶ岡八幡宮前から歩いて10分ほどで大蔵幕府跡に着きました。

 着きましたとはいっても今では何も残るものはなく、鎌倉町青年會建立の石碑があるだけなのですが...


 これが "大蔵幕府跡" です。この辺り一帯がそうでした。

 今では「清泉女学院付属小学校」の敷地になっています。
 写真を撮ったこの場所、道路も一車線しかなく狭い道で歩幅5歩ほど、静かな住宅地でした。

 ガイドブックで見ていたので石碑しかないというのは分かっていましたが、
 改めて実際に見てみると...「えっこれっ!?」と思わず苦笑いしてしまうようなところでした。


 この大蔵幕府は源頼朝が築き、鎌倉で最初に置かれた幕府です。

 「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」と習ったように、
 1192年の鎌倉幕府成立というのが一般的ですが、この年は頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年で、
 実際は1185年に幕府の権利である守護・地頭の設置が既に認められていました。

  (1192年というのは後白河法皇が死んだ年であり征夷大将軍には朝廷も渋々ながらの任命でした)

 その1185年から数年の間、この地に侍所・公文所といった幕府の中央機関が置かれていったわけです。
 と共にこの場所には頼朝の居館もありました。

 その後、頼朝の妻・北条政子が1225年死去すると共に幕府は場所を移されますが、
 それまではここが事実上、日本で最初の武家政治中心地でした。

 この鎌倉幕府が日本で初めての武家政権となり、この後700年にも及ぶ武家支配の世として、
 室町時代・安土桃山時代・江戸時代と移っていくのです。


  この源氏や平氏、頼朝たちが生きた平安時代というのは国の軍隊がない時代でした。
  というのもその頃、日本は平和だったために朝廷が軍備廃止をしてしまったのです。

  軍備を廃止したがために治安は逆に乱れてしまい日本各地で武士団が無数に生まれました。
  そして武士による反逆を恐れた朝廷が武士は武士で制圧するという考えのもとで、
  勢力を伸ばしてきたのが源氏と平氏だったわけです。

  むしろ政権ということでいえば平氏の方が先に政権確立をしています。
  朝廷と仲の良かったことを幸いに官位も多く取りたてられ、数多くの国頭にも任命されていました。

  かえって源氏の方がこのころは一介の地方武者だったのです。
  平氏の栄華は "平治の乱" で源氏の棟梁が討たれたことにより源一族が堕ちていったことによります。

   (詳しく言えばさらにその前に源氏は栄華を極めているのですがここでは省きます)

  平氏は自分たちが貴族になろうとしていたために政治を乗っ取られることを恐れた朝廷が、
  武士団をたぶらかし巧みな政治で何とか平氏を滅ぼそうと考えはじめていました。
  そしてその後、平氏と同等の力を持つようになった源氏が平家討伐することになったのです。

  平氏の貴族化という背景には、
  平清盛の妻 「時子」 の 異母妹 「滋子」 が "建春門院" と呼ばれ後白河法皇の妃に見染められており、
  朝廷の最高権力者で独裁者だった法皇との関係がありました。
  清盛自身も後白河法皇との関係が悪くなかったので、これを利用していったわけです。

  貴族化した平氏は "平家にあらずんば人にあらず" とまで言い、
  その傲慢な態度に反発する武士団が多数いたのも事実で頼朝もその中の一人でした。

  当時頼朝は平氏に対する反逆者として伊豆に島流しになっていましたし平氏から見れば源氏は敵です。
  その御曹司がおめおめと生きているのではいつ自家が滅びるか分かりません。
  頼朝自身いつ殺されるかも分かりませんから平氏に憎悪の気持ちを抱くのも当たり前のことです。

  1176年に建春門院が亡くなると朝廷と平氏を執り成すものはなくなり、平氏の衰えがみえはじめます。
  そして1181年に平清盛が亡くなると、なお一層、平氏の力が廃れていきました。

  その前年1180年には、
  "以仁王(もちひとおう)" からの令旨(朝廷の命令)として源氏一族に平氏追討令が出ていたので、
  頼朝が伊豆で、義経が奥州で、義仲が木曽で、と各地で源氏が平氏討伐のために兵を挙げていました。

  その後、源氏の活躍により平氏は滅ぼされ、
  悲運にも同朋で異母兄弟ではありますが義経が殺され、頼朝が政治を成す人物になったというわけです。


  ちなみに幕府を確立させた頼朝ですが、決して合戦の名手ではありませんでした。

  1180年「石橋山の合戦」では大庭景親に破れていますし、
  同年の「富士川の戦い」では源氏が大勝していますが、
  実際は鳥の飛び立つ音に驚いた平氏が逃げていっただけなのです。

  頼朝自身が先頭に立って勝った戦はありません。
  むしろ関東で兵を挙げていった初期は頼りない大将といわれ子分に逃げられることもありました。

  では戦が不得意な頼朝がどうやって勢力を延ばしていったのか...それは...

  地方の大豪族を叩き、
  その傘下にいた中小の武士を取り立てて迎え入れ直接自分との主従関係を結んだのでした。

  つまり自分たちの大将が殺されたけれども、
  仕えていた下級武士は命を助けられ頼朝を大将として生きていけるわけです。
  そうなると絶対服従せざるをえません...一度は死んだ命が助かったのですから。
  このやり方が頼朝の幕府創設後も勢力をつけていったのです。

  一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の合戦...
  平氏を敗走させていったこれらの戦は全て義経・範頼の成果です。
  頼朝は義経・範頼の兄ですし(母が違いますが)ましてや義経は幼い頃から悲運の人生を歩んでおり、
  念願だった兄頼朝との再会は心から喜べるものでしたので、
  そういう弟の気持ちを巧みに利用した頼朝は自分の手を汚さずに平氏を滅亡へと追いやったのです。

  朝廷との駆け引きも多々行い、平氏が確立した政権で悪いところを見直しながら、
  自分の父が昔住んでいた鎌倉、地形的にも山に囲まれ攻めにくいというところから、
  ここに幕府を構え、無理難題を押しつけながらも政権を自分のものにしていきました。

  しかしこの当時はまだまだ京の朝廷政治が中心でしたから関東の武士団は、どう足掻いても邪魔な存在です。
  それに武士政権が誕生したといってもその勢力が及ぶのは関東一円・甲州、遠くても駿河・三河の一部でした。
  鎌倉幕府創設当初は、西は朝廷政権・東は武家政権という形で政治が行われていましたので、
  関東武士団連合体である幕府にとって朝廷は途轍もなくおおきな存在でした。

  頼朝が作った幕府といえども当初はそれほど大きな力は持っていなかったのです。

  鎌倉幕府は約140年続きます。
  源氏嫡流の将軍としては3代で途絶えてしまいますが、その後は北条氏が執権政治を行いました。

  そして次の時代...足利氏による室町幕府へと移っていくのです。

 

史跡の現状はどうであれ、古の想いを偲ばせる場所であることには違いないと感じました。

そして次は鎌倉殿と呼ばれた総大将 "源 頼朝" のお墓へ向かいます。

 


それでは次のレポートへ移ります。

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