先ほどの大蔵幕府跡から歩いて5分ほどで "頼朝の墓"
へ着きます。
大倉山の麓にあり、後方には、
鎌倉幕府初代政所別当 「大江広元」
長州・毛利家先祖 「毛利李光」
薩摩・島津家先祖 「島津忠久」の墓もあります。
ちなみに
「毛利李光」と「島津忠久」は頼朝の子といわれています。
ただし母親は政子以外の女性ということです。
そういう云われもありますが今回は頼朝の墓だけ行きました。
[ 史跡・その四 "源頼朝の墓" ]
先ほどの大蔵幕府跡から真っ直ぐ北へ歩いてくると頼朝のお墓に着きます。
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お墓に向かうため山の上に登る階段の下、その左手には白旗神社が建っています。
"白旗"
とは源氏のシンボルである白い旗にちなんだ名前です。
| 白旗神社 由緒記 祭 神 源頼朝公 例祭日 一月十三日 この地はもと源頼朝公居館(幕府)の六隅で持仏堂があり、 石橋山の合戦にあたって髻(たぶさ)の中に納めて戦ったという、 小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。 正治元年(1199)一月十三日頼朝公が亡くなると、 ここに法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。 その後鶴ヶ岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け、 明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。 現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。 持仏=守り本尊として常に身近に置いていて信仰する仏像。 |
元々この場所は頼朝の遺骸が納められていた "法華堂"
がありました。
法華堂は明治維新の神仏分離の際に取り壊されてしまい、現在の墓が残るのみになりました。
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鎌倉町青年會建立の石碑 "法華堂跡" です。
| この場所は、和田義盛が幕府に対して謀反を起こした場所としても伝えられています。 和田義盛は幕府開設当初、幕府要職人として頼朝の右腕として活躍していた人物です。 しかし頼朝の死から14年後の3代将軍 「実朝」 の時に、 義盛の息子・甥・和田一族数人による将軍への謀反が発覚します。 そして義盛は息子たちの懇願をしますが、 それも虚しく反逆の罪として島流しの刑となりました。 面目を潰されたとして義盛は幕府へ乗り込みます。 この辺りは幕府要職人の居館も多々あり、北条義時・大江広元らのもとへも乗り込みました。 しかし当初は幕府総門も突破するほどの勢いでしたが、 次第に敗脚し...とうとう和田一族は滅亡してしまいます。 当時の将軍は3代目で頼朝の嫡子 「実朝」 でしたが、 実質の政権は北条氏の執権政治で、 北条氏による独裁制が生んだ謀反ともいえるものでした。 同時にここは三浦一族滅亡の場所としても云われがあります。 三浦義澄は頼朝の旗揚げ時には最も信頼されていた人で、 鎌倉幕府創設にあたり有力な支持者として、絶大な勢力を誇っていた三浦一族の総帥でした。 ちなみに三浦義澄は和田義盛の叔父にあたり、頼朝の死の翌年に亡くなっています。 和田義盛謀反の時は三浦泰村(義澄の息子)が味方をして幕府と戦うのですが、途中で北条方に内通し寝返ります。 その後、一族は時の北条氏血縁者とこの場所で対立し、正統な桓武平氏としての三浦家は滅亡します。 (三浦氏は元々平氏でした、和田氏も平氏でした。) しかし難を逃れた子孫が生き残り、足利尊氏に従い、戦国時代にはかなりの勢力を盛り返しますが、 鎌倉幕府創設から約300年後、正真正銘の一家滅亡となるのです。 |
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| 源頼朝の墓 源頼朝は建久三年(1192)鎌倉に幕府を開いて、 武家政治を確立しましたが、正治元年(1199)53歳で亡くなりました。 この辺一帯は、頼朝屋敷跡、大蔵幕府跡でもあります。 |
そしてこれが頼朝の墓です。
階段を上がり、ひっそりと建つその姿は、とてもこれが一時代を築いた人物の墓とは思えにくく淋しいものでした。
遺骸を納めた法華堂がない今はこの多宝塔が残るのみですが、
それでも物悲しい中にも威風堂々たる雰囲気があり、
頼朝の威厳・往時の栄華を伝えるには充分なものでした。
お墓というより供養塔という方が合ってる気がしました...
それでは次のレポートへ移ります。
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