そして、先ほどの若宮大路幕府跡から再び三の鳥居まで戻ってきました。
いよいよ鶴ヶ岡八幡宮へ...
![]() |
[ 史跡・その六 "鶴ヶ岡八幡宮" ]
ここでは先にお昼ご飯を食べ、しばしの休憩に体の疲れも多少癒せました。
朝から歩き通しだったので結構足に疲れが...
まずは "旗上弁財天社" へ向かいます。
三の鳥居を越え境内に入って右手の源氏池に浮かぶ島内にあります。
![]() |
旗上弁財天社への入り口です、橋を渡って向こう側へ行きます。
![]() |
橋を渡ると源氏のシンボルである白旗が多数はためいていました。
旗上弁財天社という名の由来は、
頼朝が出陣の際に旗揚げをして勝利を祈願したことからこの名が付きました。
![]() |
そしてこれが社殿。
ここの弁天様は財運・商売繁盛・芸道上達にも御利益があるそうです。
そしてこの右に社務所がありお守りを一つ買いました、満福寺に続き本日2個目です。
![]() |
そして反対側の平家池へ...ここは何もなかったので即退散...源氏の敵だし(^^;
| この源氏池と平家池は向かい合うように造られていて、 源氏池には3つの島を置き白い蓮を植え、 平家池には4つの島を置き赤い蓮を植え、 源氏の繁栄と平家の衰退を祈ったと伝えられています。 源氏池の島数3は "産" を、 平家池の島数4は "死" をあらわすといわれ、 それぞれの蓮の色は幟旗の色を示しています。 |
とはいえ、実際には島の数はよく分かりませんでした...
時期的に蓮が咲くにも少し早いようで、数えるほどの花が見れただけの池でした。
そして舞殿へむかいます。
![]() |
![]() |
池の方から参道を歩いてくると、見えてきました舞殿が!後ろには本宮も見えています。
![]() |
こんなに大きいのかぁ...とビックリしました。途轍もなくでかいです...
正式名は "下拝殿(しもはいでん)" といいます。
間近に見るその姿はとても素晴らしく、
静御前が舞を踊ったというその舞台は、悲恋の物語を充分に伝えていました。
| 静御前は京で名を馳せた白拍子でした。 義経がまだ鞍馬寺で遮那王と呼ばれていた頃に二人は出会います。 平家追討の戦を重ね、壇ノ浦で一族を滅ぼした義経は京へ戻りますが、 頼朝との仲違いもあり、さらに後白河法皇に「九州に新しい領地を与える」と言われ(というより騙され)、 義経主従は京を追い出されるように出ていきます。 (この仲違いも全て後白河法皇の策略によるもので、 結局源氏と平氏は朝廷に利用されるかたちとなっていたのです) そして逃避行の途中、吉野山で捕らえられた静は鎌倉へ連れてこられ、 頼朝の命により舞いを披露するようにいわれます。 義経を慕いながらも別々に生きていかなければならないその悲しさ...それを歌にしながら... "吉野山 峯の白雪ふみ分けて 入りにしひとの あとぞ恋しき しづやしづ しづのをだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな" 既に死を覚悟していた静は、この歌を頼朝に叩きつけることによって精一杯の抵抗をしました。 また、その半生を義経と共に生きてきた証として自分の愛を貫き通したのでした。 そして舞いが終わり御家人一同騒然たる場の中... 「神聖なる神の前で謀反人への恋を歌にするなどなんたることか!」 と、頼朝の怒りをかいますが、 「女性の恋ほどこの世で美しいものはありませぬ」 と妻の政子の助言により命だけは助かります。 しかし、この時は既にお腹に義経の子供がいました。 静の産んだ子供が 「男なら殺す、女なら命は助けてやる」 と頼朝に言われます。 が...産まれた子供は男の子でした... 子供をすり替えてまで生かせようとした政子でしたが、 その懸命な努力の甲斐もなく鎌倉の由比ヶ浜から海に流されてしまい、 静がこの手で二度と子供を抱きかかえることはありませんでした。 精根尽き果て廃人同様となった静は鎌倉をあとにします。 その後の消息もままならぬまま歴史の表舞台から消えていきました。 兵庫県淡路島に静がその後を暮らしたといわれる地があり、記念公園「静の里」になっています。 そして長野県美麻村にもゆかりのある地があり、 静のついていた杖が根付いて育ったという木が残っていて公園になっています。 ちなみに静は義経の愛人で正妻ではありません。 正妻は頼朝が押しつけたといってもいい結婚をさせられた "北の方(川越氏の娘)"でした。 衣川ではこの正妻・北の方と4歳の子供と共に自害し果てますが、 義経が愛していたのは北の方よりも愛人の静でした。 吉野での別れがなければ...といっても歴史にもしもはありませんから事実として残る出来事なのですが、 静が生きたこの時代は、人を愛するということが命がけの時代でした。 |
そして若宮を右に見ながらいよいよ鶴ヶ岡八幡宮の本宮へ向かいます。
![]() |
この若宮の場所が元々の鶴ヶ岡八幡宮の中心だったようです。
| 最初に頼朝が鎌倉入りした時、 材木座にあった由比若宮(現:元八幡)を現在の位置に移し "鶴岡八幡新宮若宮" と称したとされています。 現在残る若宮の社殿は徳川2代将軍 「秀忠」 が着工を命じ、 3代将軍 「家光」 の時、寛永元年(1624)に出来たといわれています。 |
![]() |
![]() |
そして階段下からの本宮を撮影。
間近に見えてきて気持ちが高ぶります。
右の写真は大イチョウです。
階段左側の大きな木がそれです。
| この大イチョウは、 鎌倉幕府2代将軍 「頼家」 の子 "公暁" が、この木に身を隠し、 3代将軍 「実朝」 を暗殺したため、隠れイチョウともいわれています。 |
樹齢1000年余、高さ30m、周囲7m。
県の天然記念物にも指定されていて木の天辺が見えないほど巨大な大木でした。
![]() |
そして階段を上がり本宮の前へ。
この本宮にかかる "八幡宮" の "八" の文字は ハト
の形になっています。
平和の象徴ともいうべきハト。境内にもたくさんいました。
鎌倉の名物「鳩サブレ」もこの八の文字が関係しているようです。
そのいわれについては...こちらに簡単ですが書きました。
(鳩サブレの中に入っていたしおりを元にしました)
![]() |
本宮は凄い!圧巻!圧迫感というか威厳ありすぎ...
ここまでするか(^^;ってほどそれは素晴らしいものでした。
この本宮を見ればいかに敵といえども頼朝の前では思わず屈服してしまうかも...なんて思いました。
中央の少し高くなっている所が本殿です。
本宮全体は奥行きがかなりあり、周りは回廊になっています。
頼朝が鎌倉においた幕府の威厳と繁栄ぶりを、
世に知らしめたいという気持ちがとてもよくあらわれており、朱の色も鮮やかでとても綺麗な社殿でした。
こういう言い方も大げさですが写真で見るより数倍、いや数十倍、実物は綺麗です。
| この本宮も当時のものではなく、たび重なる焼失再建により、 現在の社殿は文政11年(1828)の徳川11代将軍 「家斉」 の造営によるものだそうです。 若宮と共に国指定の重要文化財になっています。 |
ここに着いたのは夕方の4時頃で祈祷やお賽銭集めのために本宮の中に入れなかったのが残念でした。
何もなければ中に入れるらしいのですが...
そしてここでも参拝記念に。と、とりあえずお守りをひとつ購入。
「御刀守」という5cmぐらいの刀剣が入った災難厄除のを買いました。本日3個目...買いすぎかな(^^;
![]() |
そして本宮をあとにして広い境内を歩き "白旗神社"
を見ながら鶴ヶ岡八幡宮を出ました。
ここの白旗神社も頼朝の墓にあったものと同様、祭神は源頼朝で源氏の繁栄・戦勝を祈願して建てられたものだと思います。
本宮、舞殿辺りは人も多く賑わっていたのですが、少し横にそれると人の気配は殆どありませんでした。
しかもこの辺りは工事中でちょっと雰囲気が...
この鶴ヶ岡八幡宮で鎌倉史跡巡りの1日目はひとまず終わりです。
友人が帰宅するまでにはまだ時間があったのでまだ少し鎌倉歩きはするのですが...
それでは次のレポートへ移ります。
またはトップページの鎌倉で廻った史跡に戻り一覧から選ぶ。