鎌倉史跡巡りを予定通り終了したあと、友人が帰宅するまでにまだ時間があったので、
 あと一カ所ということで "妙本寺" に行くことになりました。




[ 史跡・その七 "妙本寺" ]


 

 鶴ヶ岡八幡宮から鎌倉駅まで戻り、
 途中「小町通り」も歩きながら駅近くのホテルでチェックイン後、
 最初は行こうと思って計画していたお寺 "妙本寺" に行きました。
 (時間の関係で史跡巡りの予定からは外していました)

 

 お寺にはまだ着いていませんが、これは総門前参道の碑です。

  実はこの直前に "本覚寺" というお寺にも立ち寄ったのですが、3分ほどで出てきました。
  しかしこのお寺が東身延と呼ばれ、日蓮の分骨が納めてあるという事を帰ってきてから知りました。
  しかも境内の「夷堂」は頼朝が幕府の守り神として建てたものらしく、
  そうとは知らずによく見なかったのがとても悔やまれます。
  友人と見ていたお寺の石碑に 「延身東」 ←こういう風に右から書いていてこれは何だ?などど話していたのですが...

 車に日蓮宗派の教典を積んでいて幾度も助けられているので、
 こういうところもちゃんと見ておけばよかった...しかし後の祭り...

 

 で、これが妙本寺の総門です。住宅地の一画にありお寺はこの奥に続いていました。
 右の写真は門のアップ写真です。

 

 総門を過ぎ、境内まではこういう道を歩きます。
 車で行く場合はずっと奥に見えている門(二天門)の手前に駐車場があるのでそこまで入れるようです。

 

 そして境内に入り、正面に見えたお堂。

 てっきりこれが本堂だと思って写真を撮ったのですが、実は "祖師堂" というものでした(^^;
 というのもかなり大きいお堂で迫力満点!
 普通正面に位置していたら本堂だと思ってしまいます...けど、違いました。

 本堂はこの左手にあるようでした、
 しかしそれには気が付かず見てもいなくて勿体ない...

 だけどこのお寺に来た理由は本堂じゃないのでそれ程苦にもならず。



 このお寺での目的は、比企一族のお墓を見に来たのでした。

 これが比企一族のお墓です。


 比企能員(ひき よしかず)が北条時政に滅ぼされたのは建仁3年(1203)の事でした。
 鎌倉幕府の重臣を勤めていた能員は頼朝の死後急速に勢力を延ばしますが、
 北条氏と対立する存在となり殺されてしまうのです。

 この建仁3年には、3代将軍 「実朝」 が将軍職として起ちますが、北条時政が初代執権となり権勢をとりはじめた年です。
 前2代将軍 「頼家」 が比企氏を援護したために幽閉され、その実子 「一幡」 が殺されたのもこの年でした。
 そして頼家は20歳の若さで翌年の建仁4年に殺されてしまいます。

 この頃は頼朝のように源氏嫡流の将軍が権力を誇れる時代ではありませんでした。
 頼朝の子といえども決して出来た子とはいえず、自ら政治を執り行うほどの力は持っていませんでした。

 この後の政治は鎌倉幕府滅亡までの130年間、北条氏による執権政治で執り行われます。

 すでに...源氏が平氏を滅ぼした名誉の時代、源氏が棟梁、という時代は終わっていたのです。





[ 史跡・その八 "一の鳥居" ]


 それから妙本寺をあとにして、予定外ではありましたが一の鳥居まで歩きました。
 すでに段葛の項で紹介していますので詳しくは書きませんが。

 

 写真が重なりますが一応ここにも載せておきます。
 1日中歩いていたので足の筋肉痛がかなりひどかったのですが頑張って歩きました...カクカク歩きで...(^^;



 これで全ての史跡をまわり、
 1日の予定も終わったので友人が帰宅のため鎌倉駅で別れました。

 また明日、共に2日目の史跡巡りをします。

 実はこのあと1人ホテルに戻り、2度鎌倉の町へ出て歩いたのですが、
 なにせ町が静まるのが早くなにも見るところがありませんでした。

 ちょっとした考えがあり、由比ヶ浜まで行き夕日など写真に撮ろうかなぁ...
 なんて事も考えていたのですが、既に日も沈みこの計画は成りませんでした。


 そして疲れを癒すために早めに寝たのでした。

 


それでは史跡巡り2日目のレポートへ移ります。

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