江ノ電「長谷駅」で降り、まず向かうのは "御霊神社(別名・権五郎神社)"
です。
線路沿いの近道を歩き5分ほどで神社が見えてきました。
[ 史跡・その十四 "御霊神社" ]
江ノ電に乗っていても見える近さにある御霊神社、
その歴史は古く鎌倉幕府創設前からこの地にありました。
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歩いてくると神社の直前に踏切が...
というより境内に踏切が、という感じでした。
なおこの踏切には遮断機がありませんでした...なんて怖い(^^;...
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踏切を越えると、もう神社です。
この写真を撮るために立っていた場所は線路のド真ん中(^^;
うかうかしてると電車が来てしまいます...
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電車が来ました(笑)
トンネルを抜けて来るので、踏切が鳴ってても遮断機がないため怖いです。
油断してると警笛を鳴らされます、この時は...鳴らされてしまいました(^^;
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これが本殿です。
林に囲まれドッシリと腰を据えている!という感じがしました。
なかなか重厚な作りが印象的な建物でぐるりと一回りしてみました。
そして境内には "鎌倉権五郎" ゆかりのものが...
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左:「弓立の松」 右:「手玉石・袂石(たもといし)」
"弓立の松"
この辺りの領主だった "鎌倉権五郎景政"
が陣地を見まわる際、弓を立てかけたという云われのある松の古木です。
"手玉石・袂石"
手玉石の重さは16貫(約60kg)・袂石の重さは28貫(約105kg)
権五郎景政が手に取り袂に入れたと伝えられ、人知を超えた霊力があったことを示す石といわれています。
石は神霊を宿す神の依代と考えられていたそうです。
| 神社の正確な起源は分かっていないようですが、 平安時代末期に関東で活躍した平氏5家の祖霊を祀った「五霊神社」だったと云われています。 現在の祭神は "鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)" です。 鎌倉権五郎景政とは... 後三年の役(1083)で源義家に従って活躍しその名を轟かせたという人物で平氏です。 頼朝の家来だった "梶原景時" の4代前の祖先になります。 鎌倉権五郎景政が従った "源義家" という人物は、 頼朝や義経の父 "義朝"・木曾義仲の父 "義賢"・足利氏・新田氏などの祖先になります。 ちなみに... "鎌倉権五郎景政" の名字は歴とした「鎌倉」です。 "梶原権五郎景政" というところもあるようなのですが、ここでは鎌倉と言っておきます。 "梶原"性に変わるのは4代後の景時からです。 鎌倉権五郎景政が生きた時代は... 源氏・平氏共にお互い権勢しあうことのない地方武士で、日本もまだまだ地方豪族レベル、 その中でも義家は「天下第一の武勇の士」といわれた河内源氏でした。 この義家が一門の頂点に立つ人物となり、 武士の棟梁という地位が確立された、という時代でもありました。 そして朝廷が院政政治をはじめたのも同時期でした。 初期の不安定な政治状態を確立させるためには、 どうしても義家一門の力が欲しい、と呼びかけて援護を押しつけます。 この時から朝廷と武士という因縁の関係というか微妙な関係が続いていくのです。 院政政治とはこれまでの摂関家の勢力を押さえ込む、というのが基本政策でした。 しかし源氏の武力はこれまでの摂関家との多大な関係や結びつきにより拡大してきたため、 朝廷としては義家の武力は欲しいものの源氏そのものは邪魔な存在でした。 義家一門は摂関家の家人という地位から抜けだし、 中央政界に入り込もうとする勢いもあったため、 徐々にではありましたがその勢力は押さえ込まれ衰退していきました。 その後、源氏の勢いが全くといっていいほどなくなった時期に、 源氏に代わって院政を守護するべく立ち上がったのが平氏だったのです。 |
この鎌倉権五郎景政が生きた時代は、平安後期の藤原時代です。
まだ武士という身分が確立されていなかった頃に生きた人たち、
そういう時代の印象が思ったより少ない神社でしたが、
厚い信仰心に守られたというか...
大切にされていたんだなぁというか...
なんかそういう暖かい心、というか...
鎌倉で初めて感じたものがこの神社にはありました。
それが何だか!?はよく分からないんだけど確かに感じたものがありました。
未だよく分かってませんが...
頼朝・義経たちが活躍する時代は、これより約100年後の事、
そんなことを考えながら見ていると、
ずいぶん昔だなぁ...(当たり前ですが^^;)
そんなことを想いながらの御霊神社でした。
このあとは高徳院で大仏さんとのご対面です。
それでは次のレポートへ移ります。
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