
1999年6月撮影
今回は1999年3月に128年ぶりの復元となった "太鼓門"
と "松本城内・天守閣" をご紹介します。
ではまず最初に...復元された太鼓門とは何か!?
門台石垣上にある太鼓楼に太鼓や半鐘が置かれ、
時の太鼓・登城の合図として太鼓が打ち鳴らされていたことから太鼓門と呼ばれていました。
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これが太鼓門です。 |
松本城内見取り図、今回復元された太鼓門はここにあります。 |
松本城二の丸の正門だった太鼓門は、本丸に近い方から、
一の門((櫓門)・二の門(高麗門)が置かれ、その間には枡形が造られています。
枡形とは・・・敵の進入を妨げるため門の位置をずらしている造りです。
太鼓門枡形の由来 城の入り口を固く守るためには様々な工夫がなされた。 |
ここから太鼓門の写真をご紹介します
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まずは外堀から眺めた太鼓門...前は何もなかったこの場所に壮大な門構え...門までの道は
"鵜首" と呼ばれています。
以前のこの場所には写真にも見えている黒い柵が置いてあるだけでした。
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二の門(高麗門と呼ばれる太鼓門の中央部)のアップ。
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門の左右...復元後まだ日も浅いため、積まれた石垣や門の色がとても鮮やかでした。
鉄砲狭間・矢狭間も当時のまま復元されています。(狭間=さま)と読みます。
これは敵を撃つための小窓で、正方形の窓が "鉄砲狭間"
長方形の窓が "矢狭間" です。
この写真では分かりにくいですが...下の写真でよく分かります。
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そして門を通り抜けて枡形へ入ります。この写真では鉄砲狭間・矢狭間がよく見えています。
ここでは三角の小窓が鉄砲狭間になります。そして長方形の小窓が矢狭間。
お城とか行けばよく見ますね、この小窓。
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これが一の門(櫓門)です、門上部が櫓(部屋)になっています。
掛かっている幕には石川氏の家紋(拝領紋)だった "五七桐紋" が描かれています。
石川氏は豊臣天下〜関ヶ原の合戦まで城主を勤めました。
・石川家の家紋 |
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この一の門にはとても大きな石があります(写真中央)
これは城内で一番大きな石 "玄蕃石"(げんばいし)
です。
高さ3.69m 重さは推定ですが22.5t もあるそうです。
名前の由来は、天守築造者 "石川康長" の官名
「玄蕃頭」(げんばのかみ)に由来しているといわれています。
この玄蕃石は松本城が出来た当時からこの場所にあった石で、
今回の太鼓門復元にあたり、その大きさや形を決定づけるとても貴重な資料となったものだそうです。
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そして一の門をくぐり抜け城内へ。
左の写真は一の門の反対側、上部が櫓です。
右の写真は太鼓...ご自由に叩いてくださいと書いてありました...おじさんが叩きまくってた光景は見ていて面白かった(笑)
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太鼓門祭り期間中の特別公開で一の門上部の太鼓櫓にも入ることが出来ました。
常時公開ではないので貴重でした。
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太鼓門の横に階段があり、ここから太鼓櫓へと上がります。
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階段を上がると太鼓楼があります。ここに太鼓や半鐘が置かれ、時の鐘・登城の合図が打ち鳴らされていました。
名称が似ているので少しややこしいですが、
"太鼓楼(たいころう)"
が上の写真、太鼓や半鐘を置いた場所で、
"太鼓櫓(たいころ)"
が下の写真の建物、戦闘時の兵や太鼓番の詰め所です。
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そしてこれが太鼓櫓です。
ここは太鼓番が従事のために使ったり敵襲の時に兵が籠もって戦ったりしていました。
そもそもなぜ太鼓門が取り壊されたか...
その背景には明治維新後に起こった旧物破壊の風潮がありました。
今回3年の歳月と約7億円の経費をかけて復元された太鼓門、
機会があれば一度訪れてみてはいかがでしょうか。