国上時通女(一の台)

生年未詳〜没年未詳(元和2年8月以降?)

<略歴>
永禄5年頃、島津義久の後妻となった種子島時尭女に同行した女中の1人。その後の具体的な功績はほとんど不明だが、勲功著しかったらしく島津義久から褒賞を賜った。その領地は後に養子に相続されたところから、一生独身であったと思われる。
国上氏は種子島氏の支流の一つ。祖父・国上時宜は種子島時里(種子島氏8代・時清六男)の次男という。(「種子島家譜」、『「さつま」の姓氏』)
島津家久は「一の台」なる女性宛に何通か手紙を送っているが(「旧記雑録」追録1−737〜738)、この一の台が国上時通女と同一人物かどうかは不明。
また、慶長10年頃と推測される島津義久発島津義弘宛の手紙にも「一臺」なる人物が出てくる(「旧記雑録」後編4−127)が、国上時通女との関係は未詳である。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・国上時通 母不明 「種子島家譜」久尚 9「鹿児島役所連書」
永禄5?
1月21日
1562? 島津義久の後室となった種子島時尭女に同行し、お付き女中となる 「種子島家譜」時尭
文禄2
6月26日
1593 義久が不在の間、鹿児島城の奥向きのことは一の台に報告するよう、義久が長寿院盛淳、町田久倍、鎌田政近に命ずる 「旧記雑録後編」2−1151
「町田氏正統系譜」255「島津龍伯書状」
(年度不明) 義久室に使えた功績により義久から采地千斛を与えられる 「種子島家譜」時尭
(年度不明) 伊勢長門守次男(伊勢主水佐時盛)を養子とし、義久からもらった領地千斛を相続する 「種子島家譜」時尭
慶長4 1599 菩提寺として見隆寺を国分(現・鹿児島県霧島市)に建立
法名「喜見院妙隆」
「種子島家譜」久尚 8「国分遠寿寺届書」
元和2
8月初二日
1616 遠寿寺に石灯籠を寄進 『国分郷土誌 資料編』p.884

<墓所>
・遠寿寺(現 鹿児島県霧島市国分)(?)
 種子島時尭次女(島津義久後室)墓の横に「喜見院」銘のある墓碑が残っているという(「御祭祀提要」)。この墓碑には「慶長十二年丁未 (中略) 喜見院浩隆 逆修」と刻まれている(『国分郷土誌 資料編』)

「国分遠寿寺届書」によると見隆寺は「御一之臺様」こと喜見院妙隆の生前よりの祈願所であり、島津義久と義久後室(種子島時尭女)と喜見院の位牌を祀っていたという。ちなみに江戸中期に編集された「国分諸古記」や江戸末期に書かれた「諸寺記」(『国分郷土誌 資料編』所収)には”見隆寺”は見あたらず、早くに廃絶したと思われる。

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