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読書日記


←前月5日 本のことをだらだらと書きたくなった

【小説は電車で読もう 植草甚一スクラップブック32】(晶文社)
【ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団】J.K.ローリング(松岡佑子訳・静山社)
【イギリス式生活術】黒岩徹(岩波新書)

次月→
7日 どんなページにするのか考えあぐねている

【タイム・マシン 他9編】H.G.ウェルズ(橋本槙矩訳・岩波文庫)

8日 昭和の住宅

【 昭和住宅メモリー−そして家は生きつづける。】(HOME編集部・エクスナレッジ)

9日 ミステリーを読みたくなった。

【黒猫の三角】森博嗣(講談社文庫)

14日 電車で読む本

【難民少年】ベンジャミン・ゼファニア(金原 瑞人、小川美紀訳・講談社)

15日 どれくらいの本を読めるか

【カラー版 妖怪画談】水木しげる(岩波新書)
【ジャッコ・グリーンの伝説】ジェラルディン・マコーリアン(金原瑞人訳・偕成社)

26日 持って歩ける本

【姑獲鳥の夏】京極夏彦(講談社文庫)
【短編小説礼賛】阿部昭(岩波新書)
【短編小説講義】筒井康隆(岩波新書)
【住まいのつくり方】渡辺武信(中公新書)
【ベル神父 街を行く】ヨハネ・ベル(中公新書)
【プルーストからコレットへ―いかにして風俗小説を読むか】工藤庸子(中公新書)


12月5日(月)

本のことをだらだらと書きたくなった

ほとんど毎日、本を読むようになってしまった。暇があれば本を読んでいる。仕事中以外で。
以前はテレビっ子で、とにかくずっとテレビを見ていたのだが。それからMDとかで音楽を聴くのも、まあいまだに昼休みとかには聞いてるけど。でも一番にというわけではなくなったな。だいたい聞きながら寝てるし(^◎^;)。
以前はテレビが面白かったんやな。最近はどうもうるさいばっかりで、面白いテレビ番組、見たいテレビがなくなってしまったので、テレビを消して本を読む、というのが増えてきた。
通勤途中も、以前はMDを聞いてたんやけど、年のせいか(^◎^;)耳に厳しくなってきたみたい。耳が厳しくなったんやなくてね。耳が痛いということ。長い時間聞き続ける体力が無くなってきたのかな。

で、電車でも本を読むようになって。ほんなら「視覚」はどうなんや、と言われると。たしかに最近老眼が進んできているようで(^◎^;)。ちょっと暗がりになると字が霞むことが多くなってきてる。とはいえ、「目が痛い」ということはあんまりないな。テレビを見る時間が減ったからか。

読書感想文をHPに上げてるけど。1冊ずつ、人作品ずつやとどうも構えるような気がしてきた。というのは植草甚一の「小説は電車で読もう」(晶文社)の影響やろな。すぐ人に影響されるのです。わし。
植草甚一はひとつひとつの作品をじっくり評価するなんてことはしない。まあ読んでるのが中間小説(小説雑誌)ということもあるんやろうけど。適当に(ホンマはそんなことはないんやろうけど)評価してて。しかもそれぞれの評価の仕方がとても面白い。
何より細かく分析してないのがいい。まあ中間小説やから、それでいいともいえるかも知れへんけど。しかしバックボーンが広いだけに、ただの評論や批評とはだいぶ違うような気がする。気がするだけかな。

もちろん、植草甚一に対抗するつもりなんかないけれど。「こういう書き方もあるんやな」と思って。早い話が真似しようと思ったわけ。

ところでこの本、「植草甚一スクラップ・ブック」シリーズの第32となってる。図書館(大学図書館)で、シリーズの他の本も探してみたんやけど見つからなかった。シリーズものは全て揃えてると(特に大学図書館やったら)思ったのは、思い込みやな。


さて、最近読んだ本。

やっぱり読んでしまったのはJ.K.ローリングの「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」(松岡佑子訳・静山社)。そして面白かった。やっぱりっていう言い方はおかしいな。ちょっと前に読んだとこやったからね。これの前作の「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」
ヴォルデモード卿の復活で、さてどうなるのかと思ったけど。ますます面白くなってるって気がするなあ。途中でやめるのが難しかったであるよ。まるで子供やな。

ちょっと心配してたのは、敵がはっきりと出現したことで、よくある冒険活劇になるんちゃうかということやってんけど。そうはならず、相変わらずハリー・ポッターは学校生活を(四苦八苦しながら)送ってるようやし。だいぶ成長してきたけどね。初恋はどうなるんでしょうか。っていうのはあんまり興味ないねんけど。

「アズカバンの囚人」からしばらく読んでなくて「炎のゴブレット」を読んだんやけど、そうすると今までの人物設定がどうやったか思い出すのに苦労したな。巻が進むにつれて登場人物も増えてくるわけで。それぞれがややこしい名前を持ってるので、気をつけてないとどれが誰やったか分からなくなってくるね。まあ「指輪物語」に比べるとずっとマシやけど。

「アズカバンの囚人」からしばらく読んでなかったのは、本を借りる機会がなかったというのも有るけれど、これが期待したほどではなかったからやってんな。第2巻の「秘密の部屋」が、いままでで一番面白いと思うねんけど、「アズカバンの囚人」はちょっと説明が長くてね。つまり登場人物に詳細を語らせると言う手法が(筋を分かりやすくはするけれど)ちょっと退屈やってんな。

しかし「炎のゴブレット」そして「不死鳥の騎士団」はなかなか面白い。なにがって、詳しく言うのはやめとくけど、宿敵ヴォルデモードとハリーとの関係が、敵同士でありながら・・・という複雑さが、なんともたまらんのですな。これ、「秘密の部屋」でちょっとそういう前フリのようなこともあったかな。

そ。こういう、単に敵を倒すとか、そういうのじゃない複雑さがあるのが、ハリー・ポッターの魅力やと思うなあ。


書名に期待して読んでみて、でもサッパリ面白くないというか、書名とは関係のない話がダラダラ書いてあったりすると「詐欺にあった」とさえ思うことがある。
よくあるタレント本のたぐいの多くはそうなんとちゃうかと思って、ハナから信用してない。昔話題になって買った郷ひろみの「ダディ」で懲りてるというのもあるけど。そ。昔は買ってたんやな。あれは題名やなくて、その他の話題づくりに騙された例やけど。題名で言えば北光次の「光ゲンジへ」がそうかな。ま、こういうのは買った方が間違ってると言われたらそれまでやねんけど。

そこまでひどくはないけれど、黒岩徹の「イギリス式生活術」(岩波新書)は、もっとほかの題名を付けたらとは思ったな。
最初の方を読んだ限りでは、イギリス風の生活の仕方が書いてあるのかと思いますがな。しかも「最近はやりの『スローライフ』に対する提言となるかもしれない」などと著者自らに書かれたら、どんな生活術の秘密が書かれてあるのかと思いますガナ。

でも内容はね。「紳士・淑女というものは、どのように考えるか」ということに主眼が置かれていてね。まあそれは「イギリス式」といえなくもないけれど。イギリスの例っていうのはいつも上げられるわけやないし。章によってはイギリスの「イ」の字も出てこなかったりする。

「ドント・パニック」というのもこの本のひとつのテーマらしいねんけど。それがイギリスの生活に根付いたものであるかどうかという説得力はいまひとつ。そして、それがいかに今の生活、特に日本人の生活にとって有効かという説得力もいまひとつ。後半は特に退屈になって、そうとう読み飛ばしてしまったな。

うーん。もうちょっと違う題名で、違う方向に突っ込んでいってたら面白かったかも。しかし、それでは売れへんのか(^◎^;)。


12月7日(水)

どんなページにするのか考えあぐねている

だらだらと本のことを書くだけにしようと思ってるんやけど、どういう体裁にするのがいいのかを考えあぐねている。いちおうフレーム表示にして、左側に本の題名をズラズラと並べてはいるのだけれど、はっきり言って見にくいよなあ。
でも、いい考えがすぐには浮かびそうにないので、しばらくはこのままかなあ。


僕は昔の小説っていうのが大好きで。それっていうのはたぶんある程度保証されてるっていうか。今になっても出版され続け読まれ続けられてるってことは、面白いかためになるか、ともかく読んで損はないっていう予想がつくからなんやけど。

それと、教科書とかに載ってる名作を、実際どんなものなのか体験したいっていうのもあるな。よく「高い評価を受けた」とか「歴史に残る名作である」とか書いてあっても、自分にとって面白いかどうかは別問題やからね。実際に読んでみないと、自分の中での評価はでけへん。
しかし、そういういわゆる「名作を読んだ!」という喜びみたいなものはあるけどね。どんなに退屈な話やったとしても。

で、何を読んだかっていうと、H.G.ウェルズの「タイム・マシン」(橋本槙矩訳・岩波文庫)なんやけど。SFの古典やね。

タイム・マシンを作って80万年後の未来の地球に行くっていう話で。そこは地底人モーロックが地上人エロイを家畜のようにしている世界やった、という話。
昔映画を観ましてね。その印象が強いねんけど。後ろに円盤を背負った、なんというかミシンのお化けのようなタイム・マシンがね。白い肌に大きな目のモーロックも覚えてるなあ。つまりはビジュアル的に印象が強いので、読んでてもそういうイメージが沸いてきてね。
ありがたいことにストーリーはほとんど変わってなくて。ほぼ原作どおりに作っててんなあ。最近再映画化されたらしいけど、こういう古典のSFは、最近のCG映像にはそぐわへんのではないやろか、などと考えてしまった。映像技術が昔の想像力を超えてしまってるからね。むしろレトロな映像で見たいかな。

映画のことより。本の内容やけど。
今読みますとSFというよりファンタジーかスリラーに近いですな。一緒に収められた9編の短編も含めて。これとシェリーの「フランケンシュタイン」と、どう違うかと言われたら、さてどうでしょう。どちらも「古典的SF」とも言えるし「古典的スリラー」とも言えるよね。

そして、どれにも共通して言えることは、その当時の「未来」に対する考え方やね。当時のというよりウェルズの、と言った方がいいのか。
労働者と貴族の対立とか。産業の発展とか。その結果、世界がどうなるのかっていう、不安のようなものが大きく働いてるような気がするなあ。全体に。

一緒に収められてる9編は「水晶の卵」「新加速剤」「奇蹟を起こした男」「マジック・ショップ」「ザ・スター」「奇妙な蘭」「塀についた扉」「盗まれた身体」「盲人国」
今につながるSFとしては「水晶の卵」が、視点の面白さがあるな。あとわしの好みとしては「マジック・ショップ」が、どうみてもSFじゃないけど(^◎^;)、話としては一番面白かった。何かが起こるようで起こらない、でもこれから起こるんじゃないか、という不安がとても怖い。あ、やっぱり「不安」なんや。


植草甚一さんの「小説は電車で読もう」は面白かったな。本の紹介がほとんどなんで、実際に読んでないとわからんことも多いねんけど。それに僕なら絶対に読まんやろうという本もいっぱいあったしな。

この本は植草さんが月刊・週刊の中間小説誌を読んで、その感想とかを書いてはるんやけど。前に書いたとおり小難しい分析やら蘊蓄やらがなく書かれているのがとても気持ちいい。
これを読みながら、全然畑違いなのかもしれないけれど、モームの「世界の十大小説」を思い出した。
モームが、どっかの雑誌社だか新聞社だかの求めに応じて、十冊の小説を選んでその評論をしてるんやけど。評論というより紹介に近いかな。それも植草さんと似てる。

いや、なにより似てるのは、モームの視点が「楽しみのために読む」ということに徹底されているところでね。それが植草さんと共通するんやないかなあと思うのですよね。
で、面白いかどうかということが主眼なので、取り上げている小説でも途中退屈な箇所があれば「飛ばして読めばいいのである」と堂々と言ってのけてるのである。
「飛ばして読む」なんて・・・(^◎^;)。それを読んだ当時のわしには考えられへんことやったけどね。話の筋が分からへんようになったら、どないすんねんやろうとか考えてしまったよ。

しかし、このまえに書いた「タイム・マシン」では、中にはちょっと退屈な作品もあって。それはぱぱぱっと読み飛ばしてしまったな。
思いきって「飛ばして読む」ということは出来そうにないけど、「読み飛ばす」ことはできるようになってきたかも。

で、植草さんの本によると、「大体の筋道はわかってしまうので、適当に読んでも大丈夫」になってくるのだということが分かってきた。ある程度のパターンが自分の中で分かってきてしまっているのか。
まあ植草さんによれば、それは「中間小説」というジャンルのなせるわざともいえるらしいねんけど。


12月8日(木)

昭和の住宅

建築の写真集とかを見るのが好きだ。特に好きなのは住宅。それも狭小住宅と呼ばれるものには憧れすら感じてしまう。
本屋で立ち読みするときも、ついつい「新建築」とか「モダンリビング」とかを読んでしまう。そういう本は、買ってしまうのにはもったいないような気がするのもあって。立ち読みで読んでしまうんですよね。

図書館で借りてくる本でも同様。買うのはちょっともったいないけど、じっくり見てみたい。まさに図書館様さまなわけなんですな。

借りたのは「昭和住宅メモリー−そして家は生きつづける。」(HOME編集部・エクスナレッジ)。昭和初期から建てられた住宅について、いろんな人が取材し、いろんな人が論を述べてます。対談とかもある。著名な建築家の話も。「タンポポハウス」で有名な(ほかのことでも有名やけど)藤森照信さんとか。

大型の本で、いろんな角度から昭和の住宅について語られてるし、取り上げられている住宅もいろいろ。こうなると本としての統一性とか、そんなものはありませんな。まあ読み手にしてみると、気に入った住宅がどれかあればええねんから、あんまり関係ないともいえるけどね。
それに、通して読んでみても、これで昭和の住宅について概観できるかっていうと、どうもそれは難しそうやな。なにしろ個性がいろいろすぎて。ひとつの体系とか、そういうものにまとめるのがどだい無理な話やからなあ。

以前、中村好文の「住宅巡礼」で、ル・コルビュジェの「休暇小屋」を見てから、ずっと狭小住宅に憧れてるんですよね。それからいうと、この本の中では立原道造の「ヒアシンスハウス」が、とっても気に入ったな。だいたい立原道造が建築家やったとは、全然知らんかったし。

あとはね。川合健二の「コルゲートハウス」と鯨井勇の「プーライエ」。
後者は狭小住宅の続きで好きなんやけど。
「コルゲートハウス」は、初めて見たときはいつやったやろう。テレビで「奇妙な家訪問」みたいな番組で見たんやったな。思えばあれから住宅建築に興味を持ったといえるかもなあ。工事用のコルゲートチューブ(だったかな)をそのまま住居にした建物。土台も基礎もなく、円形のチューブやから「地震の時は転がるだけ」らしい。

この二つとも、もう何十年も前の建築なんですよね。それが驚きやな。いいものは長持ちするのかも。というより、その家に住む人の愛着とか、冷たい言い方になるけどきちんとしたメンテナンスとか、そういうのがあって初めて家が家として生き続けられるのかなあ、という思いはしたな。


12月9日(金)

ミステリーを読みたくなった。

久しぶりに推理小説、ミステリーを読みたくなった。これも植草甚一効果やな。「効果」と言うか。いまだに影響されている。カブレているといっていいな。

先日市立図書館に行ったとき、文庫本の棚の前でミステリーの面白いのはないかと物色していたら、制服を着た高校生らしき女子二人連れが棚を見て、
「なあ、この赤川次郎って、知ってる? 聞いたことある?」
「さあ・・・・」
「なんかなあ、こないだテレビでやってたらしいで」

そうか。最近の子は赤川次郎といってもピンと来ないらしい。確かに一時のように出せばベストセラー、出せば話題沸騰ということは無くなったみたいやからな。といって、今まで出した本の価値が下がることはないやろうけど。

僕も昔、何冊か読んだことがあるけど。才能にあふれた人、って感じやったな。推理小説としてどうか、というのは難しいところがあるけど、ミステリーとしては王道を行ってたような気がするなあ。設定の面白さとか登場人物のキャラクターとか。物語の構成もしっかりしてて、サササッと読めてしまうねんけど、そのあとで「ああ、しょうもなかった」と思った記憶がない。ただ、「何を読んだか」と聞かれると、サッパリ思い出されへんのだな。

で、赤川次郎を読んだんやなくて。読んだのは森博嗣の「黒猫の三角」(講談社文庫)。かつての赤川次郎と同じく、出せばベストセラーになってるようなんですよね。どこが面白いんやろうと思ってね。最近のミステリーにも興味があったし。最近のミステリーというと、宮部みゆきぐらいしか読んでへんからね。

実は森博嗣の本を読むのは2冊目で。前に読んだのはミステリーではなく「アンチハウス」という、自宅を建てる顛末記やった。その時は森博嗣なんて聞いたことがなくて。これで「もり・ひろし」と読むのも知らんかったしな。ただ変わった建築の話は面白いやろなあと思って読んだんやけど。あ、以前の読書感想文を見たら、最後まで読んでないわ(^◎^;)。それに自宅やなくて、作業場兼ガレージの話やったわ。エエかげんな記憶やな。

ま、それくらいの印象やってんけど。ある時新聞の書評欄で、今週のベストセラーとかに名前が載ってて。へえ。ミステリーを書く人なんやあ。それも出してすぐの本がベストセラーになるくらいやから、人気あるんやろうなあ。と、その時初めて作家として認識したのだな。

それから図書館で改めて見てみたら、もうめっちゃいっぱい本を出してはるんですね。ミステリー、エッセイ、その他。それだけ需要があるってことで、きっと人気もあるんやろなあ。と思いつつ。その時はエッセイの最初の方を読んだら、どうも自意識が高いというか。ちょっと胡散臭いような気がして読む気が無くなったのだったな。イラストとか本の体裁とかがちょっといっちゃってる感じでね。ポップっていうこともいえるんやろうけど。僕の趣味にあわへんかったんやな。

ほんなら、ミステリーの方はどうか。と思って読んでみたわけ。ようやく本題やな。

ミステリーの本道を行く「密室殺人事件」。3年続けて同じような殺人事件が起こる。それも最初と2回目は7月7日。3回目は6月6日。そして被害者の年齢が、最初は11歳、二人目が22歳、3人目が33歳。ということは、今年の6月6日に44歳の女性が狙われるのでは。
そういう脅迫状を受け取った女性が、知り合った探偵に見張りを依頼するのだが、それも虚しく殺人は挙行される。さて犯人は。そして目的は。

と、こう書くと、なにやら「本格ミステリー」風に、横溝正史かなにかの「伝奇風」なってくるけど。文章の調子が軽いので、印象は全然違うんですな。軽い軽い。

まず、しょっちゅう出てくる比喩表現がサッパリ面白くない。「なんでここでこんな表現?。こんなたとえ?」と思うのが多い。「ミイラが入れそうな置き時計」とかね。なんか変。シャレてもいないし怖くもないし。ただの言葉遊びにしか思われへん。言葉遊びと言えば、題名にもなってる黒猫のデルタやけど、種明かしをされても「へえ・・・」と思うだけで「してやられたり!」という面白みが全くない。まあ、バックボーンの知識がないせいやけど。それがなかったら楽しまれへんというのは、どうなんかなあ。こういうエンターテイメント系の本の場合。

さらに本書の軽さを増してるのが、登場人物の名前。B級の少女漫画を彷彿とさせるややこしい名前のオンパレードで、「面白い名前でしょう?」と言ってる作者の顔が思い浮かぶようや。その顔、あんまり見たくない顔やな。「僕って、面白いでしょ?」って言ってる芸人のようで。芸人やったらそんなことをするヤツは確実に売れへんやろうけど、この人はベストセラー作家やねんな。面白いな。

本業は理系の大学教授らしい。これだけ売れてたらどっちが本業ということもないやろうけど。で、その理系の頭の良さというか、そういうのが前面に出ていてね。
それと、常識の範囲というか、「これくらいは説明しなくても」というのが多いような気がするなあ。よお分からんのだよ、というのがいっぱい。そこを解き明かしていく面白さみたいなのが、この作家にはまっていく道らしいけど。僕はあんまり興味がないな。なんでってね。解き明かしたところで「解き明かしましたね。このなぞなぞは、面白かったでしょ?」と満足げにほくそ笑む作家の顔が見えるような気がしてね。あんまりいい気持ちでない。

軽い軽いと書いたけど、後半の謎解きの部分では一転、哲学的な色合いを帯びてきて。この部分はこの部分で面白かったから、ここだけ切り離してまとめたらよかったのにな。前半3分の2は、はっきり言って余分。後半部分だけやったら、まとめようによっては一級の心理小説になったと思うのになあ。

推理小説のセオリーを逸脱してるとか、そういう問題もあるけど、それよりもっとこの本の残念なところは、そういう全体のバランスの悪さやろな。


本の内容とは関係ないけど、講談社文庫って字が大きいですね。それで、行の間隔がわりと詰まってる。何と比べて、というと、岩波文庫と比べてやけど。特に「タイム・マシン」は、字が小さくて間隔が広かったな。行の間隔がとても広い。

講談社やと行間はほとんど文字の幅の半分ぐらいなんやけど、岩波文庫は文字幅以上の行間がありましたな。字が小さいから、余計にそう思ったのかも。

1ページの文字数はどうなんやろうか。どちらが多いのか。ま、どっちでもええ問題なんですけど、ちょっと気になる。それぞれポリシーがあって、本の体裁、字のポイント数、行間は決めてると思うからね。

おなじ岩波でも、他の本は「タイム・マシン」ほど行間の空いたものはないようなんですね。何かの事情があってそういう体裁になったのかなあ。

で、問題は読みやすさなんですけどね。どっちが読みやすいか。これ、決めにくいですね。字の大きさは大きい方が読みやすいような気がするけれど、あんまり字が大きいと(変な言い方やけど)字が笑ってるように見えるんです。ページの中で字がワイワイ騒いでいるような感じ。まあフォントの種類にもよるんでしょうけど。講談社文庫は字がワイワイ騒いでる。で、ページの余白とかもちょっとしかないから、ページいっぱいに広がってワイワイしてるような感じを受けるんですね。

逆に「タイム・マシン」は、字が沈んでるというか。ちょっと寂しげに見えたりするんですよね。字と字が。寂しい。

これが図書館で借りるんやなくて、自分で買うことになってたら、やっぱり1ページに字がいっぱい詰まってる方が割安なような気がして、そちらを選ぶんでしょうけど。読みやすさという基準だけやと、やっぱり決められないんですね。


大学の図書館のHPがありました。いや、あるのは知ってたけど。蔵書とか新刊とかの検索が出来るんやね。うれしいな。便利やな。

さっそくちょこちょこっと検索。ううむ。プルーストは世界文学全集でしかないのか。リリーフランキーの「東京タワー」は。あった! しかし貸し出し中だ。貸し出し中かどうかも分かるのか。これは便利!

読んでみたい本のタイトルとか、作家名とかでも検索できるみたいやから、せいぜい利用しよう。


12月14日(水)

電車で読む本

電車に乗ってるときはだいたい本を読むようになった。以前はMDを聞いてたんやけどね。本の方が楽になってきた。活字を追ってるから疲れるように思うねんけど。案外そうでもない。MDを聞いてる方が疲れたりして。

電車で読む本は文庫本が多い。というか、電車で読む本をと思って文庫本を借りてきてるな。ハードカバーは、まあ読めなくもないけど、やっぱり文庫本の方がいい。片手で持てて読める本。ハードカバーも持てるねんけど。なんとなく文庫本の方がいいような気がする。ハードカバーはもっぱら家で読むようになるな。

前回借りた本では、「黒猫の三角」「姑獲鳥の夏」が文庫本。そのほか、同じような体裁ということでは、新書もありますな。これもかさばらないのでいい。今、「姑獲鳥の夏」(京極夏彦・講談社文庫)を読んでるんだけど、文庫にしてはやや分厚い。分厚すぎるくらい。なんとか上着のポケット(ジャンパーを着ている)に入るので、まあ何とかなるサイズかな。

分厚いんやけど、読みやすいんやな。講談社文庫の特徴かな。字が大きいし。「黒猫の三角」もスラスラと読めたからな。


で、自宅で読んだ本の話。ベンジャミン・ゼファニアの「難民少年」(金原 瑞人、小川美紀訳・講談社)を読んだ。

エチオピア人の父とエリトニア人の母をもつ少年アレム。両国が戦争状態になったことで居場所を失い、イギリスへと逃れてくる。難民申請をし、祖国の情勢が安定するまで住むことを望むが・・。

国と国との争い、民族間の争いというのは、アフリカでは日常茶飯なのかも。エチオピアとエリトニアの間で紛争があったなんて知らんかったよ。もちろんほかにも知らんことはいっぱいあるんやろなあ。

日本での難民受け入れはそうとう遅れてると思う。イギリスは日本ほどひどくはなさそうやけど、それでも他国の状況については、詳しく調べたがらないというのはあるのかもな。まあ、この本だけで判断するのもどうかとは思うけど。

そういう問題提起はよしとして。物語としてはちょっと中途半端。主人公の少年があまりにも良くできた子で、読みようによっては胡散臭くも感じられるかも。勤勉でまじめでしかも勇気もある。父親がアフリカ統一を目指す活動家ということから説明もつくねんけど、どうもね。よくできすぎてる。

だから難民問題とか、各地の紛争とか、そういう問題を考えるのはエエねんけど。誰も彼もがこの少年と同じであるかどうか、は別問題やな。

もともとは少年向けに書かれたようやから、そういう分かりやすさを心がけたのかも。しかしなあ。同じ孤児を主人公にした「エドガー・ミント、タイプを打つ」(ブレイディ・ユドール著・ソニーマガジンズ)の方が、人間臭さが勝っていてずっとおもしろい。まあ比べるのが間違いやろうけど。物語のテーマも全然違うねんから。


12月15日(木)

どれくらいの本を読めるか

どれくらいの速さで本を読めるかというと、だいたい1ページが1分前後というところ。もちろんページ内の文字数にもよるけれど。児童書みたいに1ページの字数が少ないと2ページで1分ぐらい。文庫はだいたい1分で1ページかな。と思ってたけど、講談社文庫はもうちょっと速く読めるみたい。10分で15ページとか。

電車に乗って本を読む。だいたい電車に乗ってる時間は(電車を待ってる時間も含めると)毎日往復で1時間ちょっと。で、だいたいこれくらいの分量は読めるかな、と見当がついてきた。乗ってる間にこれくらい。そんなのを先に見るのもどうかと思うねんけど、やっぱり気になってね。それに図書館で借りた本は返さなあかんので、期限までに読めるかっていうのもあるしな。最近は図書館で借りるときも「これくらいやったら2週間で読めるかいな」(最長で2週間借りられる)と考えて借りてるな。まあ、読みきれへんかったらそれでもエエねんけど。お金を払ってるわけやないしね。読まれへんかった本はそういう運命にあったと思って、次に出会う機会を待ちましょう。

先に読める量の見当をつけるというのは、電車に乗ってるときは大事なときもあると思うなあ。ちょうどキリのいいところで終わって、次のひと段落を読むかやめておくか、次に降りる駅までに読めるようやったら読もうと思うけど・・・なんて思う。まあキリの悪いところで電車を降りることになっても、もう一回、そのキリのいいところから読み直したらエエだけのことやねんけど。


図書館で借りてくるとなると、本屋で買うときには「買おうかどうしようか」迷うボーダーラインの本も気軽に借りて読むことができる。そんな本で、前から気になって、ゆっくり読んでみたかった水木しげるの「カラー版 妖怪画談」(岩波新書)を借りてきた。

新書の見開きに1枚ずつ(時々1ページに1枚)、妖怪やらの絵が描いてあって、水木しげる本人のコメントが添えてある。初めのほうは実際に訪れた「怪しい場所」、真ん中は「妖怪画」、最後は奇妙な「現象」のはなし。カラーの絵がいいね。

小学生のころ、夏休みに特別にもらったお小遣いで、妖怪画集みたいなのを買った。雑誌と同じ大きさの体裁の本でカラー版。描いたのはもちろん水木しげる。100枚ぐらい(もっとあったかも)の絵が載っていた。毎日飽かずに眺めてたなあ。

よく言われることやけど、水木しげるの描く妖怪って、どことなくユーモラスなんですよね。マンガチック。間が抜けてるようにも見える。それでいて妖怪の背景になってる寺とか神社とか、海とか山とか、そういうものはものすごく写実的なんですね。それがひとつの画面に収まってるのが、なんというかアンバランスで面白いなと思ったな。改めて見て。

それと、文章の方も「こんな恐ろしい妖怪が居るのだぞ」というのではなく、「昔はこれこれこういう風習とかがあって、こういうことが不思議に思われてて、それでこんな妖怪が生まれてきたのだなあ」っていう、どことなく懐かしむような文章でね。「怖い」ということがまったくなく、「懐かしい」っていうのがまず浮かんでしまう。昔買った画集を思い出してるから、というのもあるのかな。

ただ、こういう本は期限を区切って見るのはどうなんかなあとも思ったな。ホンマは自宅の本棚に置いておいて、ときどき思い出したように広げてみる。そういうのが本当に好きな人のやることなんでしょうねえ。そこまで気合いは入ってないな、わし。


妖怪の本ではないねんけど、ジェラルディン・マコーリアン「ジャッコ・グリーンの伝説」(金原瑞人訳・偕成社)には、西洋の(特にイギリスの)伝統的な妖怪がこれでもかっていうくらい出てくる。欄外に説明が書いてあるのはありがたかったな。

なんという特徴もない、どちらかといえば気弱な少年フェイリムの前に、突然妖精が現れて、「ジャッコ・グリーン、世界を救ってください」と言いだす。その妖精たちに追い出されるようにして旅に出るフェイリム。果たしてジャッコ・グリーンとして、世界を救うことができるのか。

何ということのない少年が冒険を重ね成長していき、最後には敵を倒して英雄になる。という話は子供のころからいっぱい聞かされてきたので(そう思ってるだけ?)たいして面白い話にはならない。が、この本は面白かった。

最初に書いたように、出るわ出るわの妖精たち。それぞれが作者の創造じゃなくて、昔の言い伝え、伝説に基づいているところが面白い。「指輪物語」を読んだだけでは分からへんかった妖怪の名前や特性やらが、それぞれの行動とか仕業とかでよく分かるように書かれてある。

さらには伝統的な祭りやまじないなんかも、よくぞこれだけ、この短い物語の間にと思うぐらい詰め込まれていて。余分なものをどんどん省いて書いてあるっていう印象やな。

作者のマコーリアンは以前に「不思議を売る男」を読んで、いろんなジャンルの物語を作る才能に感心したもんやけど。「ジャッコ・グリーンの伝説」も物語として素晴らしいと思うなあ。「不思議を売る男」は短編集の色合いが濃かったけど、こちらはれっきとしたひとつの物語。ただしその中にも、主人公と一緒に旅をするスウィーニーやエレクシアの「伝記」ともいえる半生の話もあって。どうして二人が妖精(みたいなもの)になったかってことやけど。これだけでも面白い話やったな。

どうやらマコーリアンという人、こういうお話の発想に富んだ人みたいやな。むずかしい人物描写やこまごまとした背景設定とかには関心がないようにさえ見える。真実っぽく見えるかどうかっていうのはどうでもよく、とにかく「お話」を聞かせるような、そんな感じ。だからこの話、とっても長い旅を(それも波瀾万丈の)してるんやけど、いろんなことがあっさりと片づいていったりするねんな。子供向けに書いてるっていう意識もあるんやろか。

それとエンディング。「不思議を売る男」もそうやったけど、手放しで喜べるハッピー・エンドやないんですね。どことなくうら寂しいというか。「え?ほんで、どうなるの?」と思わず言ってしまいそうになるんやね。それが例えば、勝利と引き替えに誰かの命が奪われたとか、そういう単純なことやなくて。読みようによっては、少年が大人になったのかなあ、この寂しさは大人の寂しさなのかなあ、ともとれるけど。そういうところも含めて、こういう話、好きやなあ。

訳者の金原瑞人さんのオフィシャル・ウェブサイトがありまして(本の巻末にもurlが載ってる)、そこに「ジャッコ・グリーンの伝説」の用語解説などが載っています。これ、とっても便利。というか助かった。なにがってね。「ジャッコ・グリーン」っていうのがよく分からんかったんですよね、最後まで。他の妖怪の説明とかは載ってたんやけど。それに最後の章は「ジャック・グリーン」ってなってて。おいおい名前が変わっとるがな、と思ったんやけど。この解説を読んで分かりましたな。
「Jack o' Green」なんですね、綴りが。「o'」は"of"か"on"の意味かな。日本語にするとどうしようもなく「ジャッコ・グリーン」ってなるけど。
ほんで森の精霊の意味やて。ウェブサイトを見て初めて分かったよ。


12月26日(月)

持って歩ける本

えらく間が開いたな。10日以上か。書いてる暇がなかったっていうか。日記にも書いたけど、「ヒマだけど本を読むこともない時間」っていうのが取れなかっただけでね。家でヒマやとついつい「書く」より「読む」方に行ってしまうのでね。おかげで読んだけど書いてない本がたまってきたな。ま、全部について感想を書かんでもええとは思うねんけど。ただ自分の記録のためにね。

忘れへんうちに、この間に読んだ本。
京極夏彦「姑獲鳥の夏」講談社文庫。
阿部昭「短編小説礼賛」岩波新書。
筒井康隆「短編小説講義」岩波新書。
渡辺武信「住まいのつくり方」中公新書。
ヨハネ・ベル「ベル神父 街を行く」中公新書
工藤庸子「プルーストからコレットへ―いかにして風俗小説を読むか」中公新書。
以上。

新書ばっかりやな。この新書は全部大学図書館で借りたもの。なんで新書ばっかりになったかっていうと、軽いから。大学図書館は家からは、自転車でいくとどおってことはないけれど、歩いていくとちょっとした運動になるぐらいの距離。そこまで重たいハードカバーを持って行き来するのはナア・・・と思ったわけ。以前、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」を借りたけど、上下巻を別々に借りた。一度に持ってみたら、重たかったから。ついつい、軽い本(内容じゃなく)を選んでしまうのだな。

「姑獲鳥の夏」は市立図書館で借りた。こういうのは大学図書館にはあんまり置いてなくってね。村上春樹はあったかな。でも基本はハードカバー。重たい。もっと文庫を充実させてくれたらナア。とはいえ、大学の図書館なので文句は言われへんワナ。

舞台は戦後すぐの東京のどこか。どこか、ちゃんと書いてたと思うけど、東京の地理にはまったく疎いので、忘れてしまった。そういう細かい、実際に沿った設定はどうでもよくって、だらだら坂の上にある古書店「京極堂」とか、代々続いた病院とか、そういう場の雰囲気を盛り上げるような設定が面白い。

いちおう「推理小説」になるんだろうか。良くできたトリック、とかいうことではないけどね。全体におどろおどろしいというか、気持ちの悪〜い雰囲気が漂っていましてね。それを楽しんでるうちに、なんとなくトリックについても、事件についても納得させられてしまってる。騙されてるのは読者やな。しかし小説っていうのはどのみち、読者を如何にだますかってことかも知れへんから、騙されても気持ちいいんですよね。

純粋に推理小説を読もうと思ってると、がっかりさせられるかも。横溝正史の晩年のいくつかの小説に共通するような、怪奇趣味というか、そういうものは十分楽しめます。僕は横溝正史より、もっと昔の、江戸川乱歩とか、もっとマニアックな夢野久作とか小栗虫太郎とかと共通するものを感じましたね。特に人間心理の曖昧さをとうとうと論じるところなんかは、小栗虫太郎の趣味と共通するものがあるような。そういう趣味的な読み方をすべきなんやろな。そういう読み方をしたから、楽しめたよ。

ところで、この本はわざわざ「文庫版」と断ってあるのだけれど、あとがきとかには「内容、ストーリーに変更はありません」と書いてあるのだな。どういう違いがあるのだろう。もしかして、元のノベル版の方が面白いのか。なにか仕掛けがあるのだろうか。


小説論というか、小説の解説本を読むようになったのは、植草甚一の影響かしらん。自分では分からないのだけれど。

ベストセラーになった「短編小説礼賛」と、そのあとに書かれた「短編小説講義」を並べて読んでみると、どうしたって筒井康隆の方が面白いのだな。そんな比べ方は意味がないともいえるんやけど。科学とか政治とかの話題やったら、同じ事象を違う視点で述べるということはあるかも知れへんけどね。だいたい取り上げられてる作家も小説も違うねんから。

無理矢理違いを見つけようとしたら。阿部昭のは、短編小説がいかに面白いかの解説であって、その楽しみ方を多く述べているように思う。対して筒井康隆は、これからの短編小説について、もっと面白いことを期待しているような。さらに面白いものを期待しているような感じだ。いつもより真面目にね。いつもがどういうものなのか分からんけど。筒井節のようなものを期待するとダメ。もっと真面目に、短編小説と言う物を考えなさい。とでも言いたげかな。

どちらもなんとなく、モームの「世界の十大小説」に似てなくもない。まさか対抗しようとは思ってないやろうけど。短編小説にしても、小説の解説本となると同じようなものになってしまうのかな。それからいくと、植草甚一は変わってるってことか。


「プルーストからコレットへ―いかにして風俗小説を読むか」は、解説本というより紹介本かな。いや筒井康隆も阿部昭も、紹介本に近かったけどね。

プルーストの「失われた時を求めて」を初めて手にしたのは高校生の時やったな。図書館でえらい分厚い本があって、最初の方を読んだらなんとなくその世界に引き込まれて、借りて読んだんやけど。はっきり言って何が書いてあるのか、理解は出来てなかったと思うな。当たり前と言えばアタリマエやけど。本を借りるとき、たまたま図書館の係りをしていた英語の先生が、「ほほぉ、プルーストですか。ほほぉ」と呆れたような感心したような口ぶりやったのを憶えてるな。その先生の気持ち、今やったら分かるな。

だいたい高校生では、大人の心の葛藤とかが分からんかったし、なにより舞台となってる時代背景(もともと歴史は嫌いやった)とか貴族社会、社交界についてのしきたりとかその雰囲気とか、そういうものの理解がなかったら、どこが面白いのかと思うような話ではないかしらん。昔、テレビの日曜洋画劇場で、ビスコンティ監督の「山猫」をやったとき、淀川長治さんが力を入れてわざわざ30分延長して放送したのだったが、何が面白いのかサッパリ分からなかった。貴族社会の没落というのは、それがどれだけ心に響くものなのかっていうのは、日本人には分からんものかも知れへんなあ。同じようなテーマを持った「失われた時」を読んでも、分からんのはあたりまえかな。

とはいえ。この新書のようにかいつまんで、しかも「風俗小説として」の視点で要約してもらうと、なんだかとっても面白い大河小説のような気がして、また改めて読んでみようかなと思うな。あ、ちなみに最初読んだのは、この長大な小説の第1章、「スワン家のほうへ」だけ。さすがに続きをよむ気力はなかったのでした。

さらにこの新書、プルーストとともに同時代のコレットを同列に論じてるところが面白い。コレットって「青い麦」しか知らんかってんけど。それも読んだかなあ、どうだか、憶えてないくらい。読んだかも。でもどんな話やったか。たぶん読んでないな。っていうくらい興味のない作家やってんけど。この新書を読むとがぜん興味がわいてきたよ。

生い立ちとか私生活とか、そういう紹介もされてるねんけど。波瀾万丈ですね。こういうのを知ると、フランスって面白いなあって思うなあ。プルーストもコレットも同列で論じることができるねんもんなあ。そういえばカミュとかジュネとかボーボワールとか、革新的な作家ってフランスに多いような気がする。個性が豊かな。思い込みかな。

大学図書館で探したけど、コレットの本は全然置いてないみたいやった。今度市立図書館で調べてみよっと。


建築士の耐震強度偽装問題が取りざたされてる昨今ですが。「住まいのつくり方―建築家といかに出会い、いかに建てるか」を読んだのは、そういう問題があったからではなくて。元々建築に興味があったから。

しかしこの本の前半では、建築家の仕事や経費、その他が具体的に書かれてあって、なるほどなるほど、こういう仕組みになってるのかと納得することしきり。本来ならたいして面白くもないこれらの章が、なかなか興味深く読めたのは皮肉やったな。

それはさておき。本書の中程には著者の経歴のようなものもあって。どういう経緯で建築家になったのかとか。その時代はどうだったかとか、どんな先生にどんなことを教わっただとか。このあたりはよくある話。よくある話で個人的な話。

著者が設計した住宅に関する章もあるけど。平面図とかを示してくれて、どこにどう気配りがあるかを説明してくれていて。専門家というか平面図を見ていろんなことが分かる人には楽しいんでしょうけどね。あんまり変わったことをしてるわけではないので、そういうデザイン的な面白みはないな。ただ、個人の住宅でデザインを重視するあまり、「住みにくそお!」と思えるものを見るのよりずっとマシやけど。専門家には勉強になるんでしょう。

一番面白かったのは最終章「人生は暮らすためにある」やったな。短いけどね。家のつくりばっかり考えてないで、如何に住むかを考えるべきっていうのは同感やね。子供部屋中心の家づくりっていうのはどうかなあと前々から思ってた。ここではそれ以上に「書斎を欲しがるおとうさん」に疑問を呈していてね。家を造って家庭がないっていうひと、多いような気がするなあ。

各章に建築に関する本の紹介もありまして。ううむ。これは一長一短。中には辛辣な批評もありますがね。批評として面白いかどうか。なんて、こんなHPを書いてるわしが言うことではないか。すみません。

で。この著者に共感するところは、とっても映画好きらしいんですね。映画のシーンの話がよく出てくる。「ローマの休日」の影響がどうでてるかとか、ちょっとした部屋の説明でも映画のシーンになぞらえてたり。何かの映画賞の審査員もやってはるらしい。調べたら分かるんでしょうが、調べてないな。


一度にいろいろ書きすぎた。反省。ウソ。反省なんかしてない。なにしろ自分の趣味のページやからね。

「ベル神父 街を行く」もとっても面白かってんけど。またヒマなときに(何時や)ゆっくり書くことにしよう。


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