表紙に戻る

読書日記


←前月 2日 読んだ本がたまっていく

【モーパッサン短編選】(高山鉄男編訳・岩波文庫)
【恐怖】筒井康隆(文春文庫)
【人生忠臣蔵説】森毅(KKベストセラーズ)
【住まい方の思想】渡辺武信(中公新書)

次月→
5日 やめられない、止まらない

【ダ・ヴィンチ・コード】ダン・ブラウン(越前敏弥訳・角川書店)

10日 音楽評論本は結構読んできた

【名指揮者列伝 20世紀の40人】山崎浩太郎(アルファ・ベータ)

14日 短編小説やと思って借りたのに

【ディケンズ短編集】(小池滋、石塚裕子訳・岩波文庫)
【フィッツジェラルド短編集】(佐伯泰樹編訳・岩波文庫)

15日 ようやく読み終えた

【スモール・サクリファイス】アン・ルール(曽田和子訳・実業之日本社)

18日 気に入った本から読む

【書斎のナチュラリスト】奥村大三郎(岩波新書)
【一億三千万人のための小説教室】高橋源一郎(岩波新書)
【東京タワー オカンとボクと、時々、オトン】リリー・フランキー(扶桑社)

22日 エラいものを読んでしまった

【アフターダーク】村上春樹(講談社)
【チョコレート工場の秘密】ロアルド・ダール(柳瀬尚紀訳・評論社)
【住まい方の演出】渡辺武信(中公新書)

25日 「泣きたい」と思って読めへん

【古本とジャズ】植草甚一(角川春樹事務所・ランティエ叢書)
【中年シングル生活】関川夏央(講談社文庫)

31日 図書館にて

1月2日(月)

読んだ本がたまっていく

あけましておめでとうございます。ここで改めて書くのも変やけど。

去年から読んだ本がたまってきていて。たまってるっていう書き方も変やな。読んでない本がたまってるんやったらまだわかるけど。つまり、感想文を書いとこうと思ってそのままほったらかしにされてる本がいっぱいあるってことやけど。別に感想文を書けへんからしょおもない本やったというわけでは全然ないねんけど。

年末年始の休み。思ったよりいっぱい本を読んでますな。これ、テレビとかがほんまに面白くないからっていうのが大きいな。ま、テレビが面白くなかっても、どっかに遊びに行くとか(初詣も人がいっぱいやろうけど)してたら暇つぶしになるんでしょうが。そ。暇つぶしとなると読書、というのがもうすっかり習慣になってしまってるんやな。ま、悪いことではないと自分で納得してるけど。

で。さすがにずっと読んでたら、飽きてくるもので。本に飽きるんやなくて、「読書」という行為自体に飽きてくるんですな。飽きるというより、しんどなってくるっていう方がええかな。まあ考えてみれば、本を読んでるあいだはだいたい同じ姿勢でじっとしてるわけやから、身体がしんどなってくるんですな。体力的にもたへんっていうか。で、気分転換にこのページを書いてます。


去年、書きそびれた。「ベル神父 街を行く」。奈良に住んで京都で教鞭をとっていたヨハネ・ベルさんのエッセイ集。フランス人の目から見た日本。というようなシンプルなものでもなく。といって堅苦しいものでもなくね。言葉の違いによる文化の違いとか、意外と共通するところとか。そういうのを面白く書いてはって。考えさせられつつ楽しく読んだな。

残念ながら、これが最初で最後の日本語によるエッセイやったそうで。こういうひとが関西にいてはったことがうれしいね。まあ、奈良・京都には外国人の人(それも日本通の)は結構居てはるんでしょうが。


去年、短編小説に関する新書を2冊読んだので、その影響で短編小説集を2冊借りてきてしまった。「モーパッサン短編選」(高山鉄男編訳・岩波文庫)と「ディケンズ短編集」(小池滋、石塚裕子訳・岩波文庫)。ディケンズはまだ読んでない。モーパッサンから。

有名な短編(「ジュール伯父」は教科書で習ったな。中学の時かな)が多いんですけどね。どの短編も面白かったな。モーパッサンはまず間違いなく、話の筋立てが面白くて、はずれがないです。逆に言えばひとつのパターンにはまってしまってるとも言えるけど。AとBが出会い。AがBの不可解な行動に興味を示す。するとBがその行動の由来を話し始める・・・という形がほとんどで。そのBの話の中でも、入れ子のように話しがつながっていったりするときもあるねんけど。だいたい「聞き書き」のような体裁でしてね。で、最後にどんでん返しというか。ちょっとしたオチがついてる。オチがどんでん返しでないときもあるけど。

モーパッサンは短編の大家として有名やけど。ひとつのパターンを作り上げた功績はあるんでしょうね。短編小説を世に認めさせて。しかし続けて読むと、ちょっと物足りないところが出てくるのも確かでね。話の内容はそれぞれ違うねんけど。水戸黄門を続けてみてるような。そんな気分にもなってしまったな。ものすごい数の短編を書いたそうやけど、この短編集に収められてるのを読むだけで、まあ満足ですかね。


「短編小節講義」を書いた筒井康隆の本を、ちょっと読みたくなった。図書館にあったのは「恐怖」(文春文庫)。

芸術家が多く住む住宅地に、突然起こる殺人事件。作家の主人公は、あれやこれやと推理をめぐらしているうちに、「次は自分か?」という恐怖にさいなまれる。という話。
筒井康隆特有の、ややグロテスクな比喩とか諧謔趣味とかもあって。久しぶりに読んだけど、結構楽しめたな。ただねえ。話の組み立てというか。盛り上がり方というか。そういう「力」みたいなものがちょっと少ないような気がしたなあ。さっき書いたような「筒井ワールド」(こういう言い方、本人はどう思ってるんやろうか)も、なんか中途半端な感じ。不完全燃焼のような。そういう期待を持って読んでるほうが悪いのかも。


大急ぎで2冊。何を急ぐんだか。いや。年末に大学図書館で5冊、市立図書館で5冊借りてきたんやけど、偶然というか必然というか、どちらも7日に返却ということになっていて。それまでに読まないと。いや、別に「読まないと」あかんこともないねんな。よお考えたら。読まれへんかったら読まれへんかったで。縁がなかったってことでね。

で、2冊っていうのは森毅の「人生忠臣蔵説」(KKベストセラーズ)と、渡辺武信の「住まい方の思想」(中公新書)。
この2冊を並べて考えるのはどうなんでしょ。いや、2冊続けて読んでんけど、なんか共通するところが多くて。それが気持ちのいい共通項やったから、なおさら気持ちよかったわけで。

「人生忠臣蔵説」というのは、人生の区切りを10年、20年という区切り方ではなく、「累乗で区切る」という、まことに数学者らしい考え方で。1×1=1歳が第1。2×2=4歳が第2。以下、3×3=9歳、4×4=16歳・・・・ときて、寿命が120歳までと考えると(それもすごい考えかたやと思うけど)11×11=121歳。ということになるのだそうで。で、この「11」というのが忠臣蔵の「11段」に相当するのではないか。で、忠臣蔵のそれぞれの場面に対応するように人生があるのではないか、と。まあ多分に数字遊び的なところはあると思うけどね。

そういう「人生の区切り」のような話もおもしろいけど。全般にこの本が面白いというより、この人が面白いです。森毅という人が。テレビとか新聞とかにもよく出てくるし、いろんなところでいろんなことを書いてはったりしゃべってはったりしてはるけど。
ともかく力がいい具合に抜けてるんですな。少々の挫折とかは「どうでもええやん」やし、こうあらねばならぬと考えられることでも「そうでもないんちゃう」やし。堅苦しい考え方がアホらしいことやなあって思えてきますしね。読んでると気が楽になってくる。

「住まい方の思想」は人生訓とかエッセイとかやなくて、住宅建築に関する本やねんけど。章立ても「玄関」だの「居間」だの「食堂」だので、これだけを見てると住宅を建てるときのノウハウを書いた本なのかと思うけど。確かにそういうことも書いてますけどね。でも一番大事なのは「住む人が住みやすいかどうか」なんですね。それをしっかり考えることの大切さを書いててね。よくあるデザインハウスとかもいいけれど「住みにくいよぉ」と教えてたり。でもそれを全く否定することはしないんですね。つまりは個人の価値観の問題なわけで。住みにくかっても「それで満足する人もいる。それはそれでいい」と認めてくれてるのがいいですね。
そんないろんなエピソードの一番面白かったのは、本人の住居。どうしても和室が欲しくて。掘りごたつも備えた立派な和室をこしらえたのだけれど。けっきょく掘りごたつを使うのは(というより、和室をそれらしく使うのは)年始の3が日だけ。自分で作っておきながら情けない。でも、「それでも作ってよかった」と思ってるところがいいですね。無駄な空間やねんけど「無駄も大切」と。

なんかね、この2冊とも「常識にとらわれたらあかんよ」と教えてくれてるようでね。それと「堅苦しく考えんでもええんよ」っていうてくれてるような気がしてね。そういう読み方はあかんのかな。いや、読み方にええもあかんもないもんなあ。


年末から年越しでダン・ブラウンのベストセラーになった「ダ・ヴィンチ・コード」(越前敏弥訳・角川書店)を読んでます。いやあ。面白い。それにやめられへん。次々に謎が出てきて。解明されたと思ったらまた次の謎が出てくる。まるでゲームやな。それが美術史、宗教史にちゃんと基づいてるらしいところがすごい。今、上巻を読み終わったところ。最後まで一気に読みたくなってきた。先に図書館に返さなあかん本があるねんけど。


1月5日(木)

やめられない、止まらない

読みましたガナ。「ダ・ヴィンチ・コード」。一気に、って感じで。

ルーブル美術館の館長が、美術館内で殺害される。そのダイイング・メッセージを解明していくと、意外な方向に話は広がって。

面白くって。途中でやめるのが難しいくらい。なにがってなあ。普通、ダイイング・メッセージの謎を解いて、そこで大団円というのが推理小説のできあがりなんやろうけど。この小説は最初のダイイング・メッセージは案外簡単に解かれてしまって。えっ?と思ってると、解明されたその答えがさらに謎のメッセージになっていて。入れ子入れ子で次々になぞなぞが出されていく感じ。それが美術史、宗教史に基づいてるらしいっていうのは、前に書いたとおり。

最初の死体発見からすると、やや呪術的な、悪魔教的な、ホラーの臭いがしないでもないねんけど、それはホンマに最初だけ。次々に出される(というか見つかるというか)なぞなぞは、ほとんどゲーム感覚に近い。殺人事件も起こるから、恐ろしい場面もあるねんけど、それはメインではなく。ゲームオタク+美術オタクが作ったって感じやね。

登場人物に暗号の専門家と美術・宗教の専門家をおくことで、それぞれがなぞなぞの背景になってる歴史や考え方を説明してくれるので、「ほうほう」と納得していくうちに謎が解かれていくっていう気持ちよさがありますな。その反面、推理小説ではないので、読者に謎を解く鍵がすべて明らかにされている、ということではない。その辺で作者はかなり自由に話を進めてるなあって気がする。

最後には見事に、ゴールに到着する、ということになるねんけど。ここまで入れ子入れ子で謎が出されると、「このゴールに見えるところでも、その先にまだ謎が隠されてるんやないか」という気にさせられて。その辺はうまいなあ。

ただね。読み終わったあと、「面白いゲーム本を読んだ」という感じもしたな。それって何で。よおわからん。謎が多すぎて、それぞれの場面の深みというか、そういうのが後ろにやられてしまってるねんな。最後の章など感動的なシーンやのに。残念な。映画にしたら、いいシーンになるかも。


1月10日(火)

音楽評論本は結構読んできた

大学の図書館は静かでいい。先週の土曜日に行ったときは、はじめフロアには僕とぶたこの二人しか居なくて。ほんまにゆっくり勉強&読書ができました。3時間ぐらいは居たのではなかったかな。暖房も利いてるし。「ウォームビズ」とかで設定温度をやや低めにしてるらしいねんけど。ちょうどエエ感じやったわ。暑すぎず。

山崎浩太郎の「名指揮者列伝 20世紀の40人」(アルファ・ベータ)を読み始めたら、面白くってやめられなくなって。基本的にハードカバーは(持ってくるのが重たいので)この図書館では借りないようにしようと思ってたんやけど、最後まで読みたくなって借りてくることにした。で、最後まで一気に読んでしまった。

IMG(EMI)が企画した「Great Conductors of the 20th Century」の発売に合わせて、レコード芸術に連載されたものをまとめたもの。「20世紀の指揮者」といっても、シリーズに入ってない人は、当然入ってない。文中によく出てくるクレメンス・クラウスも入ってない。探してしもたがな。反対に全然聞いたことのないひとも入ってる。コーツとかマルコとか。誰やねん、それ。いや、ちゃんと説明してくれてますけどね。

いわゆる「演奏評」という側面もあるけれど、多くはその人の生きた時代背景、経歴や録音の背景などが主題になっている。40人は著者の好き嫌いによって選ばれたものでないだけに、著者の思い入れの度合いがはっきり出ているようにも思える。その辺はかえって面白いかな。例えばクーベリックなどは、父親と本人の経歴を並べるだけの文章になってる。

その逆もあるわけで。クレンペラーなどについては結構詳しく、思い出話などを交えて書かれている。そういう格差って、結構好きかな。おしなべて面白くもない文章を平均的に書いてあるのより、信用できるっていうか。それが自分と合わなくてもエエもんね。最近は減ってきているものの、昔の音楽評論本なんかは「この良さが分からないのは、聴き手の責任なのだ」と責めるようなものもあったシナ。いまでも居てはると思うけど。音楽の感じ方なんか人それぞれ。こっちの人は感動してもあっちの人はシラケている。そういうのが普通やと思いますね。

そうはいっても、僕は昔からこういう音楽評論本が好きでして。なんでってね。昔はレコードが高かったからね。クラシックは同じ曲でも演奏者が違うと印象も変わる。早い話が出来不出来、好みに合うかどうかが問題になってくるわけで。お金に余裕のある人は気に入った曲があったら、とりあえず何枚か違う演奏家のものを買って聞き比べればエエわけですが。そんな余裕があるわけはなく。そうなると参考になるのは結局「専門家」の意見ってことになるわけです。それもできるだけ「自分に合った専門家」を探すのが肝心でしてね。自分の感性と同じヤト思える専門家。で、その専門家が「優秀」と評したら、まず間違いなくいい、買っても損はない(そこまでいってもようやく「損はない」っていう程度なんやな)ということになるわけ。

そうやっていろんな音楽評を読んでいるうちに、実際は聞いてないのに知ってる音楽家っていうのも増えましてね。これは困りもので。大きな先入観が出来てしまってるわけです。「トスカニーニはインテンポ」とか「フルトヴェングラーはライブがいい」とか「クナッパーツブッシュは遅い」とか。まあそれぞれあたってることは多いねんけど。でもそういうことって音楽の良し悪しとは、あるいは自分の好き嫌いとはあんまり関係なかったりしてね。だからやっぱり、自分で聞いてみないといかんワケですね。といって、やっぱり予算の問題があるから、結局は聞けないわけですが。

と、堂々巡りやねんけど。本の話に戻って。この本の面白いところは、そういう好き嫌いがはっきり出てるところやな。音楽論とか芸術論とかに行き着いてないところがいい。言いたかったのはそれだけ。


土曜日は午前中に市立図書館、午後に大学図書館というスケジュール。どちらも同じ日に返却日やったってことやけど。大学図書館では先に書いたとおり、ぶたことふたりで勉強&読書。ほんまに気持ちよく。

それぞれの図書館で、また本を借りてきた。またっていうのもなあ。読まれへんかってもイイやと思ったら、いっぱい借りてしまったな。市立図書館で6冊、大学図書館で5冊。5冊の内、1冊は前述の本。市立図書館では、5冊くらいは借りよかなと思ってカウンターに持っていったら、3か月くらい前に予約リクエストしていた本が届いていた。ほとんどあきらめてたのに。まあ嬉しいけどね。

で、今読んでるのはそのどれでもなく(^◎^;)。アン・ルール著「スモール・サクリファイス」(実業之日本社)。ぶたこが借りてきて読んでる本なのだが、ぜひ読みなさいと言われて。いや、確かに面白い。面白いっていったらあかんのかもしれへんけど。アメリカ、オレゴンで起きた銃撃事件。母親と3人の子供が撃たれ、子供のひとりが死亡。しかし、事件を追っていくと、母親の異常な行動が明かになっていく。さて・・・というところまで読んだ。副題に「虐待の連鎖」というのがついてるけど。今のところ虐待がどうとか言うより、事件の顛末、その真実や如何にという、ドラマチックな部分にひかれている。

で、やっと上巻を読み終わるところやねんけど。あとの本、いつ読めるんやロカ。


1月14日(土)

短編小説やと思って借りたのに

電車で読むのには文庫本か新書がちょうどいい。上着のポケットに入るので、読みたいときにさっと出せて、もちろんしまうときも簡単。出勤時はだいたい座れないので、立ったまま読むのにも重たくなくっていい。まあちょっとした単行本でも、今はそんなに重たくはないけどね。

「ディケンズ短編集」(小池滋、石塚裕子訳・岩波文庫)を忘れてたな。「クリスマス・キャロル」を思わせる話とか。編者の意向やろうけど、怪奇趣味とか幽霊とか、そういうたぐいの話が多く収められてる。それもディケンズやろうけどな。僕の印象としてはディケンズはもっと正義感とか倫理とか、そういうものが根底にあるやろうと思ってるねんけど。そうではない部分がよく分かる。こういう部分もディケンズの面白さといえるかも。だから、ちょっと辛気臭く思える長編小説が面白く読めてしまうのはこういう面白さを備えているからかもな。

「フィッツジェラルド短編集」(佐伯泰樹編訳・岩波文庫)は、短編集やと思って借りたんやけど。書名もそのとおりやしな。ところが6篇収められてる「短編」は一番短いものでも40ページ、「メイ・デイ」は100ページもある。これが短編? まあええけどね。今やったらちょっとした単行本になるやろな。

フィッツジェラルドは初めて読んだかな。1920年代のアメリカを舞台にした小説が多いんですよね。ということぐらいしか知らんかったな。その時代のアメリカに郷愁とか関心とかがなかったら面白くないかも、と思って読んでなかったんやな。

しかし、この短編集は面白かったですよ。結構楽しめたな。第1次大戦後のちょっと豊かなアメリカの、その反面、ちょっと悲しい面を描いててね。ホンマの豊かさとは何かっていうことは、もうこの頃からのテーマになっててんな。


1月15日(日)

ようやく読み終えた。

アン・ルールの「スモール・サクリファイス」(曽田和子訳・実業之日本社)をようやく読み終えた。

1984年に起こった衝撃的な事件。母親が実の子3人を銃で撃ち、1人が死亡、2人が重症を負った。が、母親は「誰かに撃たれた」と主張。検察は証拠を集め、生き残った2人のうちの1人が証言できるのを手助けする。そして1年後に裁判が開かれて。

というのを、実に細かく記述したルポである。この母親ダイアン・ダウンズの子供時代に受けた虐待から、その後の生活、性格の形成など、ほんとに細かくルポしていて、読むのに骨が折れそう。ハードカバーで上下巻あるしな。

上官の副題に「虐待の連鎖」、下巻の副題には「ママがわたしを撃った」となっている。父親に受けた虐待が、その次の虐待につながっていく・・・ということを証明するような内容ではないですが。どちらかというと、この母親ダイアンの、その実像に迫るのが主題のようで。その上で、ダイアンに挑む(挑むという言い方がまさにしっくり来る)検察側のひとたちの戦いぶり、奮闘ぶりが描かれていて。読むのに骨が折れると書いたけれど、「それで、どうなるの?」という気になって、なかなか途中で読み終われないですな。

事件の発端から裁判、後日談まであって、「エピローグ」で終わりかと思ったら、本が出版された後の後日談まであって。ほんまに「どうなんねん?」と思いつつ終わりましたわ。

で、読み終わって。さて。「虐待」について何か問題提起がなされていたかいな。どうもそうは思われへん。どちらかというとダイアンその人そのものに関心がいってしまって。事件の悲惨さとダイアンの異常性だけが心に残ることになった。ううむ。生き残った2人の子供の生活は、その後安定してるらしいけど。それだけが救いのような。


1月18日(水)

気に入った本から読む

市立図書館で借りてきた本は6冊。次の土曜日が返却日やねんけど、まだ2冊しか読んでない。たはは。ま、読まれへんかっても、損をするわけやないからええかもね。
よく、レコードの収集家で、聞く時間がほとんど持てないのにどんどんレコードを買ってしまうという人の話を聞きます。昔、レコード芸術か何かの雑誌に載ってたクラシック音楽愛好家(もちろんアマチュア)は、月に50枚のレコードを買ってたな。で、とうてい全部を聞けそうにないねんけど、
「今買っておかないと、すぐに廃盤になるから」
という強迫観念で毎月買い揃えていたらしい。まあ、「いつか聞くかも」と思いつつ、レコードジャケットを眺めるだけの生活も、その人にとっては至福のときなのでしょうけど。それを他人がとやかく言うこともないですが。だいたいがテレビも見んと本ばっかり読んで「何が面白いの?」と言う人かて居るやろうしな。ま、それぞれの好みはそれぞれ、ということで。

返却日が近い本から読んでいく、というのが常套な道やと思うのですが。どうにも「面白そうな本から読む」「そのとき気に入った本から読む」というのから逃れられなくて。まず読んだのは新書2冊。これは大学図書館で借りたものやから、返却は来週の土曜日なんやけどね。


奥本大三郎という人は、どんな人やったかな。名前だけが、どっかにうろ覚えで。聞いたことあるねんけど。顔も(写真か何かで)見たことあるはずやねんけど。思い出されへん。
「書斎のナチュラリスト」(岩波新書)は、雑誌「図書」に連載してたものをまとめたもの。雑誌連載のエッセイっていうのは、電車の中で読むのにちょうどいい長さともいえるな。だいたい駅に着くまでに章の区切りまで読めてしまうし。もし読まれへんかって、続きを読むのがずっとあとになって、「どこまで読んだかいな?」「どんな話やったかいな?」と思っても、すぐに前に戻って読めるし。

まあなんというか、自然体の文章でとっても面白い。サササッと読めてしまうねんけど、つまらないからサササッと読めるんやなくてね。面白い面白い、と思ってるうちにどんどん読めていくってかんじかな。
題名のとおり「ナチュラリスト」してはるんですね。で、それがいかにも「ナチュラリストでござい」という、偉そうな高みからの言葉じゃなくて。思わずケラケラと笑ってしまうようなところもあってね。いいですね。
こういう読み物は、著者に同感できるかどうかが面白く読めるかどうかの鍵やね。その点では、わし、共感を覚えました。

ただね。最後の章「漱石の硯」だけは、どうも。こういう文人好みの趣味はわしにはほとんどないので、ちょっと退屈な話やったかな。でもそれまでがものすごく面白かったから。


室井祐月に言わせると、高橋源一郎は「サイテーなヤツ」なんでしょうが。「一億三千万人のための小説教室」(岩波新書)は、面白かった。「こんなふうに考えて、本書いてはるんや」(「本」ではなく「小説」だ!と言われそうやけど)っていう発見というか。ほとんど告白やな。

そう。「小説教室」といいながら、実は小説家の(あるいは文を書く人の)心のうちを解説してるんですね。いつのまにか解説してる。解説、という言葉も、どうもかしこまっててしっくりけえへんけど。つまりはそういうこと。
だから、いちおう「小説を書くためには」みたいな話をしてるんやけど、いわゆる「マニュアル本」とは全く違う。まるでエッセイを読んでるような。ううん。エッセイでもないな。なんやろな。やっぱり「評論」かな。いろんな文章の引用もあるし。

僕は、残念ながらこの本を読んで「よしっ、僕も小説を書いてみよう」とは思わず、「よしっ、もっといろんな本を読んでやろう」と思ってしまったけれどね。それもまた、この本の読み方やと思いたいですね。どんな風に読もうが、これは読者の勝手なのであって。

もともとはNHKの「ようこそ先輩」で、小学生向けに行った授業がきっかけで、まとめられたものだそうで。もちろんそのあと、かなり書き加え書き換えたところがあるんでしょうけどね。どう考えても「AV女優」を講義したとは思われへんからね。


リリー・フランキーの「東京タワー ボクとオカンと、時々、オトン」(扶桑社)は、どうやら今年一番の(今年という区切りはおかしいか。去年からずっと売れてるからな)ベストセラーになりそうな勢いやな。エッセイ「マムシのアン・アン」とか「日本のみなさん、サヨウナラ」とかを読んで、面白そうやったので前々から呼んでみたかったんやけど。なかなか図書館に入ってこなくてね。忘れた頃に入ってきました。

書評とか本の宣伝(いまだに宣伝してるね。売れてるねんなあ)とかで「涙が止まらなかった」とか「泣けます」とか、さんざん書かれててんけどね。そうかあ。最近の子は(読者はほとんどわしより若い子やと思われる)こういうのを読んで泣けるのかあ。わし、あかんわ。全然泣かれへんかった。むしろ笑う場面の方が多かったな。

副題のとおり、主人公(著者自身でしょう)と母親との話なんですけどね。子どものころからの話から。大人になり。筑豊から東京に出てきて、やがて母親と一緒に暮らすことになるねんけど。そして母親はガンになり。まあ、あとは想像してください。よかったら読んでもらっても。

筑豊、母、と来ると、わしら世代には五木寛之の「青春の門」とダブってしまいそうになるねんけど。昔読んだなあ。途中まで。何で途中までかっていうと、面白くなかったから。共感でけへんかった。主人公に。リリー・フランキーと五木寛之とでは、全然世界が違いますけど。

そ。最初の方は面白かってん。子供時代の話。わしの子供時代と(もちょっと若いけど)だぶってるし。そのへんは共感できるところもあってん。
でもなあ。
東京で母親と暮らし始めて。その後はなあ。どうも感傷的すぎるような気がしてなあ。あの、エッセイでの、ちょっと斜に構えたような、冷たいような暖かいような、あの目線が無くなってしまってるような気がしたな。母親への思い入れの強さゆえ、かもしれへんけど。せやから、幕切れもどうもしっくりけえへんようなものになってるような気がしてしまう。うう。もってまわったような言い方ですみません。

期待が大きすぎたのだよね。作者と、この副題。そしてベストセラーってことで。「泣ける」小説はしょうもないと相場が決まってると思ってるねんけど、「ちょっと違うかも」と思ってたんやな。

それはともかく。
この本、見かけはそこそこの大きさ、厚さやねんけど、450ページもあるんですね。これ、普通に読むのも大変な量やと思うねんけど。これがベストセラーになるってことは、みんな本を読むのに抵抗が無くなったってことかな。分厚い本でも面白かったら読むってことやな。それは嬉しい。何で嬉しいねん。出版関係者でもないのに。


1月22日(日)

エラいものを読んでしまった

土曜日。市立図書館へ行った。気のせいか、本が少なくなってるような気がした。移転の噂もあるねんけど。古いからね。遠くになったらいややな。でも、新刊もいっぱい入ってたから、すぐに閉まるということはなさそうなんやけど。

前回、「6冊借りたけど2冊しか読めてない」て書いたけど、実は読めたのは1冊だけやった。2冊目は返却日までに読め切れなくて、結局もう一回借りました。それが村上春樹の「アフターダーク」(講談社)。

なんというか。「エラいものを読んでしまった」という気分やな。それもいい気分やねんけど。今までにもこういうのを読んだことはあるけど。しかし。ここまでおかしいのは(笑うという意味ではない)なかったかも。
話は3つほどに分かれてて。というか、3つの話が同時進行してるような。そのうち2つはきっちり寄り添っているような。しかし3つ目は・・・なんじゃこりゃあ、と思ってたら、最後にちょっとだけ寄り添って。うーん。なんとも説明のしようが難しい。

まずは深夜のファミレスでひとりで時間を過ごす娘が居て。そこに徹夜のバンド練習をする前に、そのファミレスに寄った男の子が居て。その男の知り合いの、ラブホテルのオーナーが、ホテル内で起こった暴力事件で、暴力を受けたのが中国人だったので、中国語がしゃべれるその娘に助けを頼み。というのがひとつめの話。

さて、どうやらその中国人の娼婦を暴行した客の男性の話しがあって。

もうひとつ。娘の姉の様子。これが、話というより「ようす」をただ説明してる。それがどうもSF的。映像的。読者を巻き込むようなかたちで「映像」として語られる。

3つの話は時間を追って、それぞれ同時進行的に語られるので、これがその同じ夜に同時に起こった出来事というのだけははっきりしてるようやけど。しかし、個々の事件の詳細とか、娘の姉に起こったことの説明とかは一切なく、物語は朝になってハタと終わってしまうのですな。なんという幕切れ。

読んでると「ええ?これってどういう意味よ?」とか「何でこうなるの?」という謎がいろいろ出てくるねんけど。SF的なところだけやなくて、普通の会話でも「それは今、話したくない」とか言って、それで話が終わってしまうことも。なんとまあ。

しかし。こういうことってあるのではないかなあ。説明のつかないこと。というより。現実世界には説明のつかないことのほうが多い。何でそうなったのか。分からないことの方が多い。それをそのままにしておくっていうのは、実は勇気がいるのではないかな。作家にとっては。それをやり遂げたってことか。村上春樹は。

人によっては「何がなにやら、さっぱりわからん」というやろし(わしもわからん)「こんなん、面白ない」という人も居るやろけど。僕は好きですね。いろいろ考えてしまったけどね。全部の話のつじつまがあうように謎解きをする人も居るかも知れへんけど、考えへん方が楽しいかも。


不思議な小説がもうひとつ。不思議、というてもこちらはファンタジーなんやけど。
ロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」(柳瀬尚紀訳・評論社)は去年映画になって大ヒットしたな。昔から有名な話やったみたいやけど。何度も翻訳されてたみたいやけど、今回は新訳ということで。しかも柳瀬尚紀。この訳が素晴らしい。巻末に名前の訳の説明が載ってましてね。チャーリー・バケットはチャーリー・バケツになってる。これは元の名前を英国人が読むとピンと来るらしい。へえ。その他、Saltと「ショッパー」とかね。ちょっと凝り過ぎかもとも思えるけどね。でも面白かったな。

話の内容はね。まあありがちやねんけど。途中の、工場に招待された子供たち大人たちと工場主のワンカ氏とのやり取りが、なんともいえずちぐはぐで楽しい。結末も思ったとおりやねんけど。途中のブラックな展開がなんともいえず面白く楽しめました。児童文学となってるけど、ノリはやっぱりロアルド・ダールでしたな。


渡辺武信の中公新書を読むのは3冊目。「住まい方の演出」は、副題に「私の場を支える仕掛けと小道具」となっていて。家を構成するもの(窓、壁、戸から家具にいたる)についてのいろいろ。建築家としてどう演出してるのか、というよりそれらをネタにしたエッセイともとれるな。著者の大好きな映画のシーンやミステリーの一節などをいっぱい引用していて、その人の住まいにどうマッチしているか、どういう演出がなされているか。を説明してくれて。さらにはさすが建築家で、それを実際の住まいにどう生かせるかまで書いてる(時もある)。

映画好きのわしにはなかなか面白かったな。それにね。「こうなったらええな」と思ってた常識みたいなものを覆してくれててね。それでいて何もかも否定する、ということもないのがいいです。ホンマに面白いな。続けて、別の本も読んでみたくなってしまいますわ。


土曜日、図書館でまたまた植草甚一の本を借りてしまった。しばらく読まんとこうと思ってたのにな。何でって。真似しをしそうになるから。(って、もう手遅れやけどな。)

しかし。手にとってしばらく眺めてたら、誘惑に勝てなかったよ。これはまた次の機会に。


1月25日(水)

「泣きたい」と思って読めへん

「東京タワー」の宣伝がまた新聞に載ってたな。「泣けます」っていうのがひとつの売りのようになってるみたいやけど。あんなもので泣けるのか。母親が死んで「オカン」というだけで泣けるのかなあ。

どうも僕は人が死んでしまう小説というのは苦手で、そういう場面になるとちょっと緊張して読んでしまう。そうして緊張した割にはあんまり満足しないで終わってしまう。何でなんやろう。

いままで本を読んでいて泣いたことがないか、というとそんなことはなくて。一番最初は井上ひさしの「イサムよりよろしく」で、泣きながら読んだのを覚えてる。なんや、悲しい話より感傷的な話のほうが泣けるみたいやな。まあ、そんなに本を読んで泣く方ではないですけどね。これを書きながら、はて、他の本で泣いた話はないかいなと考えてみたんやけど、思い浮かべへんくらいやからね。だいたい「泣きたい」と思って読めへんからなあ。


土曜日に図書館で借りた植草甚一の本は「古本とジャズ」(角川春樹事務所・ランティエ叢書)という題名。いつものごとく、いろんなところからの寄せ集めなんやけど。本の話をするにしても昔話をするにしても、新しいおしゃれの話をするにしても、語り口が変わるわけやないから、印象としては「植草甚一を読んだ」ってことでまとまってしまうのですな。

この中には「植草甚一自伝」なんていうのもあって。どんな自伝やろうと思ったら、これが自伝とは名ばかりの思い出話を「思いつくままに書いてみました」みたいな文章でね。だいたいが「何年にどこそこの小学校に入学し」などという書き出しなどは全くなく、いきなり東京のどこそこの喫茶店のコーヒーは、なんてところから話が始まる。それも昨日飲んだコーヒーだったりする。それで「思い出したんだけれど、50年位前、」と、いきなりタイムスリップして昔話となるわけ。

これはやられたな。なんかよおわからん間に「植草ワールド」にはまっていってる自分が居ててね。とても気持ちいい。気持ちいいんかい。そ。いいのです。

実は植草甚一については、今まであんまり詳しくは知らなかった。ジャズ評論家で乱読家。古本好きでニューヨークの古本屋の「全部の奥付けを見てまわった」という話を兄から聞いたことがあるな。コレクション好き。膨大なジャズのLPは、死後、どういうわけかタモリがすべて引き取ったんじゃなかったかな。

で、この本には巻末に簡単な年表みたいなのがついていて。これを読むとびっくりやね。ジャズの評論を始めたのは50過ぎぐらいからやねんね。それどころかジャズを聴き始めたのが40代半ばだとかそれくらいで。それって、今のわしの年やないかいな。わし、今からジャズを聞き出して、それで評論までやれるとは思わないであるよ。

いや、出来るのかもしれませんなあ。やる気さえあれば。あと、才能もあるやろうけど。ともかく。これでまたしばらく植草カブレな文章になるんでしょうなあ。申し訳ない。誰に謝ってるんだか。


「ひとりごと」にもちょっと書いたけど、関川夏央の「中年シングル生活」(講談社文庫)には、読みながら何度も「くすっ」とか「けけけっ」と笑ってしまった。そんな面白い話ばっかりやないねんけどなあ。そこはかとなくうら寂しい文章の方が多くて。そんな中に「流れ者の小林旭には、浅丘ルリ子はついていかないのだ」と急に言われるとついついけけけっとなってしまうのである。

関川夏央を読むのはこれが初めてである。何で読む気になったかというと、高橋源一郎の「小説教室」で、たいそう褒め上げていたからである。気に入った人が推薦する本は読んでみて損はないはずやと思うわけであるな。

小説でもよかってんけど。小説は目につかへんかってね。文庫では。何で文庫を選んだんかな。たぶん電車で読みやすいやろうと思ったんやと思うな。ま、確かに読みやすかったな。一つ一つの話が短かったし。それでいてそれぞれがつながってて。というても基本的にはエッセイのようなものですから。つながるも何もないのだけれど。書いてあることは題名のとおり。中年のシングルの生活(暮らしがなくて生活がある、と書いてるけど)はどんなものかということやね。なかなか面白かったけどね。わしはシングルではないけど。シングルに憧れてもいないけどね。

中には自分の中年生活だけやなくて、中年で(中年やな)生涯を終えた夏目漱石の話や、同年代の森瑶子、最後に対談で出てくる阿川佐和子とか。いろんな人の仕事のこととか人生のこととかも書いてはる。最近、こういう書評めいたものをよく読んでるな。まあ、気に入った本を読もうと思ってるだけで。それがちょっと偏りがあったとしても、誰に迷惑をかけるわけでもないから気にもしてないけどね。

ただ、書評めいた本とか、ちょっと作家のことを書いた本に出会ってしまうと、その作家の本も読んでみたくなって、そうやって際限なく次々に読みたい本が出てきてしまうのですな。


1月31日(火)

図書館にて

土曜日。大学図書館へ行ってきた。もちろん、本の返却もあったけどね。ぶたこは英語の勉強。空いてる土曜日は大学図書館、ということになってきたな。

図書館では、気になった本をとにかく机の上に持ってきて。ちょちょっと読んでみて、気に入ったのは借りて帰ろうということである。ま、借りて帰るには重すぎる、という本はとにかくここで読めばいいのであるよな。ともかく、うろうろするのは初めの方だけにして、机にドドッと本を積んで読むのである。

その本が気に入るかどうか。一番わかりやすいのはあとがきとか解説とかかも知れへんなあ。どこが読みどころか、作者の書きどころみたいなものもわかるわけやし。
そう思って、あとがきから読んでみて。これ、なかなかいい考えやったみたい。と思う。本編を読んでみて、ほんまは中身が分かるってなもんやけど。まあ、ええ方法かもな。

で、図書館では候補になったけど、結局読み進めへんかった本。三田純市の「続・大阪弁のある風景」
50音順に大阪弁が書いてあって。用例とか使い方とか。あれ、同じ意味か。とにかく短い解説のようなものが書いてある。で、この解説がどうもいけてないのだな。それぞれの言葉の意味とか、由来とかは面白いねんけど。残念な。

もう一冊。「ダリ全画集」というのもありまして。画家のダリの全画集。全部ですぞ。それが一冊になってる。年代ごとに並べてあって、間に(というか、隙間にというか)伝記のようなものがはさまってる。ううん。うまく言われへんけど、画家の評論という面もあるし。それで膨大な挿絵があるって感じかな。6歳から(!)の絵が、たぶんほぼすべて納めてあって。この文章もとっても面白い。

ただね。厚さが10cmはあるかな。重さもそうとう。とても家に持って帰る気にはならへんな。ま、誰も借りて帰ることはないやろうから、これから図書館に来て時間があるときは、ゆっくり、ちょっとずつ楽しませてもらうことにしよう。この本についてはいろいろ発見があったんやけど(本についてというより、ダリについて)、それはまたの機会に。ちなみに、まだ青年期(16歳ぐらい)のところまでしか読んでません。


大学図書館では、パソコンで蔵書の検索ができる。試しに「植草甚一」で検索したら、5冊の蔵書があると出てきた。スクラップブックシリーズは4冊ある。前に1冊は読んだから、あと3冊はあるってことやな。

その3冊を探して書架の間をうろうろ。シリーズやから目につくやろうと思いつつ探しててんけど、いっこうに見つからない。おかしいなあ。

もう一度パソコンで検索してみる。さっきは本のタイトルだけで満足したんやけど、もうちょっと詳しく、本のラベル(分類番号)を調べてみた。
そしたら。なんとそれぞれの本のおいてある場所が違うやないですか。シリーズやから同じ棚にあると思ってたのが間違いやったんやな。映画の評論は映画の棚、古本の評論は図書館関係の棚、普通の本の評論は文学の棚。全部バラバラや。ちょっと笑ってしまったね。まあ、それがなんとなく植草甚一さんの仕事とぴったりはまってるような気もしたな。


実はこのところ、ほんまに本の虫になったようで。テレビも見ずに本ばっかり読んでるって感じ。だから読んだ本がまたまたたまってきてるんやけど。ほとんど毎日1冊は読んでる勘定になるな。これほど自分が本好きやとはびっくりやな。それもテレビを見ずに本を読むとはな。

読んだ本のことをいろいろ書こうと思ってんけど、もっと時間のあるときにしよっと。と言う間にもう2月やな。


このページの最初へ