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読書日記


←前月 1日 図書館の本を読む

【嘘をついた男】エマニュエル・カレール(田中千春訳・河出書房新社)
【オリエント急行の殺人】アガサ・クリスティー(中村能三訳・早川書房)
【「ABC」殺人事件】有栖川有栖、恩田陸、加納朋子、貫井徳郎、法月綸太郎(講談社文庫)
【ああ言えばこう食う】阿川佐和子・檀ふみ(集英社文庫)
【ぼくの読書法−植草甚一スクラップブック6】植草甚一(晶文社)

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3日 余計なことを書いたかも

【田中小実昌エッセイコレクション1】田中小実昌(ちくま文庫)
【ハリウッドのことを話そう−植草甚一スクラップブック4】植草甚一(晶文社)

7日 土曜日の話から

【星の王子さま】サン・テグジュペリ(稲垣直樹訳・平凡社ライブラリー)
【博士の愛した数式】小川洋子(新潮社)

17日 本は読んでるんだけど、本のことを書く暇がない

【スタイルズ荘の怪事件】アガサ・クリスティ(矢沢聖子訳・早川書房)
【日の名残り】カズオ・イシグロ(土屋政雄訳・早川書房)
【アミ 小さな宇宙人】エンリケ・バリオス(石原彰二訳・徳間書店)
【闇に蠢く】江戸川乱歩(江戸川乱歩全集2・光文社文庫)
【蝶の舌】マヌエル・リバス(野谷文昭・熊倉靖子・角川書店)
【怪奇探偵小説傑作選−1 岡本綺堂集】(ちくま書房)

2月1日(水)

図書館の本を読む

学生時代、ある先輩に「本は買って読むもんやで。図書館なんかで借りたら、頭にはいらへんで」と言われたことがある。元をとろうと思わないので、一所懸命には読まない、というのが理由なのだそうだ。確かにそれはあるかもなあ。

と思ったのは前のこと。今やほとんど本を買うことがない。図書館ですましている。といって「元をとろうと思わない」ことはない。借りた本はできるだけちゃんと(どういうのがちゃんと、なのかは別として)読もうと思ってるし。実際よお読んでると思うしな。

もおひとつ。本を買った方がいいという理由があって。どこかに誰かが書いてたんやけど。渡辺武信やったかな。建築家の。なぜ本が整理できないのか、という文章の中やったと思うけど。本はその人の歴史そのものやったりするんやな。今までどんな本を読んで来たかということが、そのまま「今までどんな人生を歩んで来たか」と言うことにつながってる。だから本棚に並んだ本を見たとき、その人の人生が一目瞭然となるのだそうで。そして、それは他人よりも本人が一目瞭然度が高いのだそうで。だから自分が買った本は「人生そのもの」という気になって捨てられないのだとか。

となるとですね。今のわしのようにほとんどの本を図書館から借りて済ませておるということは、歴史がない、少なくとも「一目瞭然」とはならないわけですな。それってどうよ。どうともないな。そういうのを眺めて喜ぶというのも分かるけど。まあ、ここにこうやって書いてることだけでも十分かもな。


さて、最近読んだ本。エマニュエル・カレールの「嘘をついた男」(田中千春訳・河出書房新社)は、1993年にフランスで起こった、一家殺人事件のレポート。フランス郊外で火事が起こった。夫婦と二人の子供が火事に巻き込まれ、辛うじて夫だけが重傷を負いながらも奇跡的に助かった。別に暮らしている夫の両親の家に行くと、両親は殺されていた。さらに、死亡した妻と二人の子供の遺体を調べてみたら、火事が起こる前にすでに殺されていたことが分かった。

重傷を負った(最初は重体やった)夫の職場はWHOだということで、ジュネーブのWHO本部に連絡を入れたが、そういう人は働いていないという。さらにいろいろ調べてみると、この男の学歴も職歴もすべて偽りだった。そして、両親と妻と二人の子供を殺して、家に火をつけたのだった。

作者のカレールは何度か犯人と文通もし、事件の経過も調べて書いてるネンけどなあ。ちょっと突っ込みが足りないかなという印象やな。前に読んだ「スモール・サクリファイス」は、あまりにも細部にわたって詳細に書かれていて、途中ちょっと飽きたりしたんやけど、こちら逆に突っ込みが足りひん。勝手なもんやな、読者は。

最初の書き出しとか、ちょっと詩的な小説みたいやったから、おんなじ犯罪追跡小説でも、違うテイストみたいなものがあるのかなあと思ってんけどな。まあ、違うテイストはそのとおりやったけど。

なんでこの本を読もうと思ったかって言うと。最近どうも外国文学というと、アメリカ文学ばっかり読んでるような気がしてね。たまには違う国の、それも新目のものを読んでみたいなあと思ったわけ。ところが図書館の大部分を占めてるのがそもそもアメリカ文学なわけですな。映画はハリウッド、文学もアメリカ文学か。ちょっとねえ。

少ない中から選ぶと、どうしてもフランスものになるみたいでね。というのも、アメリカに次いで多いのがフランスものなんですね。イギリスのもの、となると、これはもう古典になってしまってね。ただしこれは市立図書館の話でして。大学図書館は、もうちょっとだけいろんな国の本が集まってます。


ミステリを読みたくなって。アガサ・クリスティーの「オリエント急行の殺人」(中村能三訳・早川書房)を読み始めたら、面白くって一気に読んでしまいましたがな。映画にもなった、アガサ・クリスティの代表作の一つなんやけど、今まで読んだことがなかったんやな。意外にすらすらと読めてしまったし、読んだあとの気分もよかったな。こういうのって、ミステリには珍しいかも。純粋に、推理小説かと言われると、そうでないかもしれへんけど、面白いからええやないの、と僕は思いますね。こんな展開あり? はい、ありでしょう。あってええやん。

なんといっても、乗客の証言が積み重なっていくに連れて、組み上げられていく一つの事実、という組み立てがなんとも面白くって。ちょっとずつちょっとずつ、一つ一つのブロックが組み合わされていく面白みがあるんですね。それって推理小説の醍醐味と言えるかもね。

講談社文庫の創刊30周年を記念して書かれた「「ABC」殺人事件」は、そのアガサ・クリスティの「ABC殺人事件」にかけて、5人の作家によるオムニバス作品集。有栖川有栖、恩田陸、加納朋子、貫井徳郎、法月綸太郎の作品が納められてます。

テーマは決まってるけど(テーマと言うべきか)、スタイルも設定もそれぞればらばらの作品群は、ミステリ雑誌を読んでるような面白さはあったな。ミステリ雑誌って読んだことないけど。こんな感じなのかなと思いつつ読んだ。

それぞれの作家で好き嫌いとかも分かれるでしょうけどね。実は5人とも今まで読んだことがなくって。まるっきり知らん人のを読むのもいいもんですな。5人の中では(僕の好みでは)恩田陸の「あなたと夜と音楽と」が一番面白かったな。だいたいラジオのDJ二人の会話だけで話が進んでいくっていう、そのスタイルからして「やられた」って感じでね。それと、どこかこの人、人物に対する視線が暖かいような気がするねんなあ。ほかの4人に比べて。まあ、この作品に限ったことなのかどうなのかはわからヘンねんけど。実を言うと、読みながらなぜか胸にジンと来て、うるっと来たところがあったんですよね。どこやったかなんて思い出されへんねんけど。ミステリを読んでそんな気分になるなんてなあ。あ、宮部みゆきにそういうのがあったな。ほかの作品も読みたくなってきた。


阿川佐和子と檀ふみのリレーエッセイ「ああ言えばこう食う」(集英社文庫)は、料理雑誌「TANTO」に連載されていたものがほとんどやから、もちろんタイトルどおりに食べ物の話が多いわけです。そしてふたりの食の趣味、考え方の違うこと。それだけ違うのに、二人の仲のよさ。本当にさわやかですな。気が合う友達が居るってことはいいことですね。ただこのふたり、どちらとも、付き合うとなるとちょっと疲れそうな気もするんですが。


ひいふう。ようやく最後の本、植草甚一スクラップブックの6、「ぼくの読書法」(晶文社)にたどり着いたぞ。

前に読んだ「古本とジャズ」に収められていて、すでに読んだものもあったんやけど。読んでる途中で「あ、これもう読んだやつや」と思いつつ読むのもまあたまにはええモンやろうと思って(というより、初めに選り分けるのがめんどくさかったのだが)だだだっと全部読んでみました。

いろんな時代の文がまぜこぜになって集められてましてね。だから時代によって書き方がずいぶんと変わってきてる。それが隣り合わせになってたりするんで、ときどき「あれっ?」とか思ったりするですね。なかにはちょっと退屈なのもある。それがだいたい真面目に(もちろん、植草甚一にしては、という注釈付きやけど)書かれたものなんやな。この人、案外(失礼!)真面目な人ヤッたんやなあ。で、その自分の真面目さをちょっとはすかいにして、それで文章を書いてはったんやなあ。などと勝手に想像してみたりするのですな。

それにしても。続けて植草甚一を読んでるなんてどうかしてるよな。大学図書館では5冊しか借りられへんのに、そのうちの2冊が植草甚一。かぶれてる。知らん間に文章も真似してるみたいヤシ。

大変な読書家でいらして。それも洋書の古本をニューヨークでたらふく買ったりしてはる。「ひらがなを読んでるようなもんだから、日本語より英語の方がすらすらと読めるようになった」なんてのたまわってはる。「本はどのように買うか」という文章の最後に
「洋書はテレビの外国語講座などをまめに聞いている人ならば、だいたいの見当はつくでしょうが、字引を引いて筋が分かるまでは5年はかかります。これは大変な作業ですが、これを一度やるとあなたは必ず人が変わってしまいます」
そうなのか! 今から5年もかかったら50代半ばになりそうなんやけどなあ。「人が変わってしまいます」という言い方は、そそるものがあるなあ。幸い(かどうかは分からんが)わが家には洋書が何冊かあるから、ちょっと挑戦してみようかしらん、などと思ってしまうところなど、ますますかぶれてしまっていることの証拠なのだな。


2月3日(金)

余計なことを書いたかも

「洋書も読んでみよかな」と書いたら、ぶたこに目ざとく見つけられて。「あれもある、これもあるよ」と勧められてしまった。いや、ちょっと思っただけやねんけど。しかしまあ、いっぺん読んでみよう。と思って読んだのが「The book of Murder」という短編集。ミステリの短編集ですな。やっぱりミステリか。まあ、初めはこんなもので。

まだ一番最初のロバート・ブロックのMan with a hobbyというのを読んだだけやけど。英語はともかく。おもしろい話やったわ。クリーブランドのある町で、ボウリングを楽しんだあと、静かな場所に行きたくてバーにやってきた男。すると隣に見知らぬ男がやってきて、自分と同じようなボウリングのボールを入れるケースを持っている。そしてその男が話し出したことが、猟奇殺人者の話で、最近この町に来ているらしい、などという物騒なことを楽しげに話し出すのだが。というような話やと思うネンけど。

最後のどんでん返しが楽しめたってことは、僕の英語読解能力もそこそこということやな。えへん。とはいえ、これは全部で5ページほどの、ホントの短編、ほとんどショートショートといったものやったからね。それでも分からん単語に詰まりつつやったからな。おもしろい話やったから、まあ楽しんだけどね。

この短編集、確か香港でぶたこが買ったんですよね。安かったから。全部で45編の短編が収められてて。ペーパーバックやネンけど550ページもあるのであるよ。ゆっくり楽しめますね。ははは。


別に焦って読むこともないねんけど。誰に言ってるんだか。はい、明日、大学図書館に行こうと思ってるんです。先週に続いてね。本も、読んだものはもちろん返そうと思ってるけど。読みかけのはどうしようかな。今読みかけなのは田中小実昌の「エッセイコレクションI・ひと」(ちくま文庫)と、植草甚一の「ハリウッドのことを話そう」(晶文社)の2冊。どちらもそこそこ面白いネンけど。一生懸命になって読むほどでもないかな、とも思ったりして。

田中小実昌さんの書いたものは、実は初めて読んだのだな。エッセイとか、ひょっとしたらどこかの雑誌だかに載ってたのを読んだことがあったかも知れへんけど、忘れてるな。それより、時々テレビに出てはって、飄々とした雰囲気で「ええ人やなあ」なんて思ってテンけど。エッセイにはそれまでの職歴とか生活歴とかいったものもちょっと話のさかなになってるんやけど。なかなかめちゃくちゃな人生を送ってはったようで。人は見かけによらへんなあ。

とにかくいろんなことを疑ってかかる。これは確かにそうなんだろうか。疑って、理屈をこねて、何が何やら分からないパラドックスに陥りそうになって。それをまた楽しんでるって感じなんですね。この世界に入り込んだら楽しいのかも。僕はまだ、ちょっと距離があるなあって感じなんですが。

僕が一番覚えてるのは、アップダウンクイズの解答者に出てはって。正解すると乗ってるゴンドラが一段ずつ上がっていくのだけれど、その度に「びくっ」としてはるのがとても面白かったな。しかし、あれもひょっとしたら演技やったのかも。などと思ってしまうのでありました。


植草甚一さんのは映画の話。これが本職やったんですね。まあ、何を本職と呼ぶかっていうのはいろいろあるでしょうが。ともかく若いときからの仕事というと、映画の紹介やら外国映画の輸入やら制作やら。東宝に勤めてはったらしいですから。

で、戦後すぐの、まだジャズ評論家になる前の、書評なんかを書く前の、映画のことを話している植草甚一さんが居るわけです。これ、ちょっと「はじめまして」って感じで、ちょっとすらすらと読めないんですね。昔の、戦前の映画制作の話なんか面白いんですが。僕なんかのあんまり知らない、あるいは名前だけ知ってるような制作者や監督やなんかの話をしてはるんですけどね。あまりにも真面目で、あのだらだらっとしゃべってるような口調じゃないんですね。そうなると、なんでか分からんけど話の内容もなかなか頭に入らなくってね。すらすらとは読めないわけです。

さて。明日返却して、別の本を借りてこようか、延長して最後まで読んでしまおうか。ちょっと考え中です。面白そうな本があったら、そっちを借りてくることにしよう。


2月7日(火)

土曜日の話から

土曜日は予定どおり、図書館のはしごのような状態やったな。市立図書館で5冊、大学図書館で5冊。結局田中小実昌も植草甚一も返却。飽きっぽいのかな。まあ、また読む気になったら読むであるよ。

大学図書館の中は飲食禁止であるが、6階にはテラスがあって、そこに出れば飲食は自由。びんかん用のゴミ箱も置いてある。あんまり知られてないのかも。まあ今の時期は寒くて、長い時間はそこに居てられへんけどね。そういうわけで、6階に陣取って読書を楽しむことにした。このフロアにはコンピュータールームがあって。ただし、学生しか使えないのですな。残念。そのほか、持ち出し禁止の大型本や辞書などが揃ってるフロアなのですね。美術全集とか英語の辞書とか行政白書とか、そういうのを置いてる。

ほかのフロアの気になった本を持ってきて、このフロアでしか読まれへん本と一緒に読む、というのがなかなかよかった。これからもこの手でいこうかしらん。

署名は忘れたけど、建築全集みたいなのがあって。活字を追いかけるのに少々飽きたら、それを眺めてた。見てたのは清家清の作品集。面白いですね。この人の家。自宅が特に。壁がない。庭から家の中が全部見渡せる家。説明が難しいけど。どこかで見てください。


時間がたっぷりあったので、図書館で1冊読んでしまった。サン・テグジュペリの「星の王子さま」。いろいろ訳本が出て来ているらしい。著作権との関係らしいけど。ぼくの読んだのは平凡社ライブラリー。ほかの訳と比べるなんてことはしてないから、何とも言われへんねんけど、まあ面白かったな。もっと簡単な本やと思ってた。子供向けやと思ってたし。しかし、子供向けにしては難しい内容でっせ。なかなか哲学的。などというのは大人の読み方なのか。素直でないからね。

あんまり深い意味なんか考えんと読む方がいいのかも。まあ読み手の自由ですが。


ぶたこが借りてきた小川洋子の「博士の愛した数式」(新潮社)はベストセラーですな。映画にもなったし。映画になったおかげで映像としてのイメージができてしまって、それは読むときの助けにもなったし、邪魔になることもあったな。どうも深津絵里のイメージになってしまうのですな。この家政婦さんが。イメージとしてぴったりなのもあるけど。

それはともかく。80分しか記憶がもたない数学者という設定は面白かったけどな。途中の数学の公式とか、数字の面白さとかは、まあ面白かってんけど。

うーん。感動しましたとか泣きましたとか、そういう書評(宣伝?)もあるねんけど。僕にはいまひとつ、ピンとけえへんかったというか。ちょっと惜しい感じもするんですよね。設定が面白いし、たぶん作者の数字への思い入れとか、その楽しみ方とか、そういうのに共感も持つねんけど。なにやろ。

ちょっとね。バランスがおかしいんですよね。博士と家政婦とその息子のバランスが。で、家政婦の語りで私小説的に語られるねんけど、それもどうもしっくり来ないというか。書き手の思い入れが深くなると、どういうわけか主人公の博士の印象が遠ざかってしまうという感じがしてしまうんですよね。これって、なんなんでしょう。だから主人公ほどには博士に対して愛情が沸いてこなくなってしまうんです。どんどん。変な読み方をしてしまったのかなあ。

たぶん。たぶんやけど。こまごまとひとつひとつのエピソードとか、話の構成とかを確かめ直したら、この妙なバランスの悪さ(その感じ)の原因が分かるのだろうけど。そんなめんどくさいことは、したくないわなあ。


2月17日(金)

本は読んでるんだけど、本のことを書く暇がない

ちょっと気取って、植草甚一風に題名をつけてしまった。

ま、題名のとおりです。オリンピックが始まってしまって、しばらく忘れていたテレビっ子の虫が起き出してしまいました。毎日見てます。トリノ。開会式は夜更かししてみてたし。それから以降も夜更かし、早起きとかして、体内時計はどうなるやろうと心配です。うそ。どうにでもなると思ってる。

で、まったく読書してないというわけではありません。もちろん。電車の中では本を読んでるし、どうかすると最近は昼休みにも読んでたりする。やっぱり体内時計がおかしなってるんやろか。

そのほかにも書けない理由を無理矢理考えると、最近読んでる本の傾向ということもあるかも。本の傾向、というより読み方の傾向やな。一冊を読みきって次の本、というのでなく、あっちをかじりこっちをかじり、という風にちょっとずつ読んでるんですな。つまりは短編集をいろいろ借りてきたおかげで、そんなことができるわけですが。

短編集でも、ちょっと分厚いめのものを借りてしまいましてね。途中でちょっと飽きたりして。で、別の短編集を読んだり。などということをするのはなかなか楽しいです。でも返却日には、読みかけの本を一挙に返却せなあかんのだね。

話を戻すと、読み切ってない本のことを書くのがちょっと躊躇されるのですね。読みきってから何か書こうかなと思うわけで。そうしてるとなかなか読みきらないので、結局書けない。ははは。

しかし、読みきらないと書けないということはないわけでね。勝手に自分で思い込んでるだけやから。途中まで読んでイヤになったら「イヤになった」と書いといたら、あとあと「あの本はしょおもなかったな」ということの記録になるねんしな。まして短編やねんし。

と思いなおしまして。ともかくこの間に読んだ本を、忘れないうちに列挙。

アガサ・クリスティの「スタイルズ荘の怪事件」
カズオ・イシグロの「日の名残り」
江戸川乱歩の「闇に蠢く」
岡本綺堂の短編集
集英社文庫の「短編復活」
マヌエル・リバスの「蝶の舌」
長嶋千聡の「ダンボールハウス」
エンリケ・バリオスの「アミ 小さな宇宙人」

こんなもんやったかな。このうち全部読んだのは「スタイルズ荘の怪事件」と「日の名残り」と「アミ 小さな宇宙人」の3冊。江戸川乱歩のは、小説集の中に入ってたもので、そのほかに「パノラマ島綺譚」(これが本の題名になってる)とか「一寸法師」とかがはいってるねんけど、まだ読んでない。あ、「ダンボールハウス」もほとんど読んだけどな。あっちを読みこっちを読みという風に、気になるところをつまみ食いみたいにして読んだから、全部読んだという気になってない。


さて、では順不同で。できるだけ書いていこう。大急ぎで。あんまりのんびり書いてると時間がかかりそうやから。

「スタイルズ荘の怪事件」(矢沢聖子訳・早川書房)はアガサ・クリスティのデビュー作。昔々に読んだことがあったけど、今になって読み返してみると、面白さがぐっと違っててね。昔はただ推理することが面白かったけど、クリスティの魅力はむしろ推理以外の人間模様やないかと思うなあ。昔はそれを味わうことがでけへんかったけど。今、読み方が代わった自分にも驚くな。それと、早川書房のこのシリーズは、前書きにアガサ・クリスティの孫のマシュー・プリチャードの解説があって、これがまた面白いのであるな。

「日の名残り」(土屋政雄訳・早川書房)は、先にテレビで放送された映画を見たのであった。それがとてもいい映画やったので、原作を読んでみたくなったわけ。原作は本国イギリスの文学賞「ブッカー賞」を受賞した。第二次大戦をはさんでの、イギリスの貴族の家に勤めた執事の回想。その主人は、戦時中ナチスドイツに協力したとされて、国賊扱いされるが、執事としてはそんな主人でも主人は主人。しかも人間的には品格(この言葉がキーになってるな)も備えて、思いやりもある好人物(だからこそ、ナチスに利用されたとも言える)だったために、執事である主人公は主人を責めることはできない。むしろ誇りに思っているのだが。さらに、かつては名執事と思われたが、年を取って昔のような働きができなくなった父との関係。ほのかな愛情を寄せる女中頭との関係。映画ではこの女中頭との関係に、話の中心があったけど。それもまたひとつの視点かな。最後になって、かつて慕っていたことを告白される(それも婉曲に)シーンは、ちょっとじんと来たな。執事としての仕事を全うすることに全人生をかけてきたけれど、果たしてそれがよかったのかどうか・・・という回想になるんですね。「日の名残り」という題名の意味も、小説の方がより分かりやすい。あたりまえか。

「アミ 小さな宇宙人」(石原彰二訳・徳間書店)は本来は児童文学なのかな。それにしては理屈っぽい。「これが正しいのだ」と教えられてるようで。教えられてるっていうのは、ちょっといやな意味でね。学校の授業みたい。まあ理想をいろいろ語るのはいいねんけど。

さて、大急ぎで他の本の話を。「蝶の舌」(野谷文昭・熊倉靖子訳・角川書店)はスペインの作家マヌエル・リバスの短編集。でも表題の1作しか読んでない。映画にもなりましたね。映画、見たかったな。スペイン内乱の、悲劇的な話なんやけど、はっきりと悲劇的な場面を描くんじゃなく、それでも悲しい話になってるのがいいなあ。ちょっと、雰囲気に流されそうな描写とかがあって、読みづらくもあってんけどね。

光文社文庫から「江戸川乱歩全集」というのが刊行されていて。「闇に蠢く」(うごめく、と読む)はその第2巻の最初に収められている。最初に読み始めた感じと、後半とでずいぶん印象の違う作品になっている。著者による解題によると、連載をはじめた時には結末をあんまり考えておらず、いろいろやってるうちに意外な方向に話が進んでしまったらしい。最初はやや怪奇な推理ものかと思わせるんやけど(確かに推理ものと言えなくはないけれど)、後半は人肉食という猟奇の心理小説風になってしまう。そこら辺になると「読み物」っていう感じがしてしまうねんなあ。ミステリー映画がB級映画になるような。

岡本綺堂という人、聞いたことがあるなあと思ったら、半七捕物帳を書いた人なんですね。ちくま文庫の「怪奇探偵小説傑作選−1」が岡本綺堂集で。「青蛙堂鬼談」が収められている。大正から昭和にかけての作品集。というか連作集ですな。青蛙堂に集まった人たちが、順番におもしろい話(怪奇談)をするという趣向。ただ怪奇談といっても、幽霊が出てきたり魔物が出てきたり、あるいは猟奇的なものがあったりというわけではなく、「なんとも不思議な巡り合わせ」とか「ひょっとしたらそれは人の恨みというものか」という具合に、「いかにもありそうな不思議な話」なのが面白い。それぞれが語り手が経験した、あるいは聞き知った話で、ということで、十分な説明がつかない話も多い。それだけに余計に「ありそうで怖い」ともいえる。ちょうど、何もないと分かっていながら、夜中にひとりで便所に行くのが怖い、というのに似てる。


文春文庫の「短編復活」「ダンボールハウス」は、また日を改めて。


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