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| ←前月 | 3日 | ヤング・アダルト小説
【ルーカス】ケヴィン・ブルックス(林香織訳・角川書店) |
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| 9日 | 読まれなかった本たち
【塵よりよみがえり】レイ・ブラッドベリ(中村融訳・河出書房新社) | ||
| 11日 | ゆるゆると
【ポピー ミミズクの森をぬけて】アヴィ(金原瑞人訳・あかね書房) | ||
| 13日 | 同じ時期に同じような本を読むのはどうか
【レイチェルと滅びの呪文】クリフ・マクニッシュ(金原瑞人訳・理論社) | ||
| 18日 | ついつい外国ものを手に取る
【世界でたったひとりの子】アレックス・シアラー(金原瑞人訳・竹書房) | ||
| 22日 | 翻訳者の名前で本を選んでもいいのだ
【バドの扉がひらくとき】クリストファー・ポール カーティス(前沢明枝訳・徳間書店) | ||
| 25日 | 題名にひかれて読んでみた
【はなうた日和】山本幸久(集英社) | ||
| 26日 | 読んですぐに書くこと
【闇の底のシルキー】デイヴィッド・アーモンド(山田順子訳・東京創元社) | ||
| 30日 | 予想が外れ
【体の贈り物】レベッカ・ブラウン(柴田元幸訳・マガジンハウス) |
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ヤング・アダルト小説 「アダルト」といってもいやらしいものではない。10代の若者を主人公にした小説をこう呼ぶことが多い。昔は、その世代の小説というとどこか教育的なところがあったり、あるいは悩み多い世代としてその悩みをまっすぐ描いたもの、というのが普通だった。けれども、いつの頃からか、正直にその時代の若者の考えや行動を描こうというのが出てきたみたいで。いつの頃からなのかなあ。20年ぐらい前かなあ。こういうジャンル分けをするようになったのって。 で、僕はこの分野の小説が結構好きです。内容はちょっと過激やったりするねんけど。10代から20代になろうとする若者の生活とか心の動きを描くのでね。善人でもいろんな悩みを持つし、悪人はとことん「ワル」やったりする。それこそ人を殺しかねへんぐらいに。 ケヴィン・ブルックスの「ルーカス」(林香織訳・角川書店)もこの分野の小説になるんでしょうが。主人公は流れ者の若者。ルーカスという名前。それは名字か名前かも分からない。語り手であるもう一人の主人公ケイトは、ルーカスに惹かれるんですけど、島(この閉塞的な社会!)の人間は流れ者、よそ者を受け入れようとしない。それどころか、若者はこの見知らぬ男を追い出そうと画策し、そして悲劇がおこる。 文中にも触れられている、ハーパー・リーの「アラバマ物語」を彷彿とさせるような話でもありますな。映画しか知らんねんけど。 あらすじだけをこうやって書くと、余計にそう思えるのかも。でもね。このルーカスの人間性というか、よく分からない内面というか、そういうのが昔の小説とは違うところなんですな。つまりは「よく分からない」のですね。 ありきたりな話やったら、このルーカスは、流れ者だけれどきれいな心を持った少年で、頭もよく、勇気もあって・・・などとなるんでしょうが。 ケイトが環境保護の運動をしてるというと すべてをケイトの視線から描いているのだけど、それがとてもとても克明に描かれていて。おかげで300ページを超える大分量の小説になってます。ここまで克明に書いてどないするねんとも思うけれど、「自分の気持ちを整理するために書いた」という設定からすると、これは当然なのかも。だからかなあ、大分量なのに全然退屈せずに最後まで読めましたよ。いやあ、たいしたものだ。 もう一冊。アガサ・クリスティ「ポアロのクリスマス」(村上啓夫訳・早川書房)。 まあ、いつもどおりのポアロものなんですけどね。あんまり有名じゃない小説かな。わしが知らんかっただけ? ともかく面白かったな。最後の、これまでの出来事を整理して、事実を積み上げていって、そして真犯人に到達するという、その構成はいつもと変わらへんねんけど、やっぱりドキドキしつつ読んで、そして感心してしまう。最後の章は一気に読んでしまいますね。ポアロさんの独演会は。 この早川書房のシリーズ(クリスティ文庫という名前が付いている)は、とっても読みやすい訳と体裁で、とってもいい感じ。金原瑞人さんが「翻訳には旬というのがあって、その時代にあった訳がある。だから新しい訳の方がいい」というようなことをどこかで書いてはったらしいけど。このシリーズは今の時代にぴったり合ってるのかも。 読まれなかった本たち 自分の備忘録として残しておくんだったら、読んだ感想文だけじゃなくて、「読めなかった感想文」も残しておくべきかな。この本は結局、つまらなかったってことで。最後まで読めなくても。最後まで読んでないのに、つまらなかったって言ってもいいのか。まあいいでしょう。最後まで読めないくらいにつまらなかったってこともあるし。ひょっとしたら読み方というか、僕の能力が小説についていったないのかも。まあ、それでもいいけど。 ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(富田彬訳・角川文庫)は、2度目の挑戦やったけど、結局最後まで読めず。ともかくだらだらとした展開にまいってしまったのだな。どうやらダロウェイ夫人が催すパーティの、その一日を追っただけの物語やねんけど、登場する人たちの心の動きを克明に追っていくので、どんどん長くなっていくのですね。その話の流れに乗れるかどうかがこの小説を読み切れるかどうかの境目のような気がするなあ。ぼくはちょっと、無理があった。 スティーブ・エリクソンって、誰か知らんねんけど、「アムニジアスコープ」(柴田元幸訳・集英社)は最初の方を読むとなにがナニやら分からなくって、それがちょっと面白いかなと思って読み始めてんけど。舞台は現在ではないロサンジェルス。山火事の拡大を防ぐため?に方々で火を燃やしている。火事の拡大を防ぐのに火を燃やすのも変な話ともいえるけど。ともかく先に燃やしてしまうということらしい。で、燃やしている間は、その近辺は通行禁止となるので、移動ができなくなって、ロサンジェルスの一角にとどまることになる。例えば(ロスじゃないけど)ラスベガスに足止めとか。僕が読んだところまでだと、空港まで(今は使われていない、という設定)しか行けないとか。 そういう外側の設定と、主人公の行動がなにに基づいているのかっていうのがよく分からなくって。もっと読み進めたらわかったのかな。主人公の男(名前も忘れた)はロスのホテルのスイートに泊まっている(らしい)。愛人がいるのだが、ふたりでラスベガスのショーに出てる女の子を誘拐して、どうするのかと思ったらその愛人と女の子がよろしくなって、男は置いてけぼり。で、どうなるの? どうやら女の子と愛人は仲良くなるらしいけど。話の脈絡がつかへん。もっと読んでいったら、つじつまが合ってきたりするのかなあ。それか、どっかで読み間違えたのか。ともかくなにがナニやらという感じになってきたので、諦めた。 他にも諦めた本もあったなあ。とくにガルシア−マルケスはいけません。短編集を前に借りたけど、最初の話で疲れきってしまった。行間を読む力がいりそうやな。原語やったらもっといいのかも。あるいはラテンの気質というか、性格というか。そういうのが元もとあったら分かりやすいのかも。僕はどうころんでもラテン気質ではないから、あきまへんな。 ここからは読んだ本。レイ・ブラッドベリの「塵よりよみがえり」(中村融訳・河出書房新社)は短編集のような連作集。なかには読んだ覚えがあるなあと思うものがあって、あとがきを読んで分かったんやけど、それまでの短編をまとめた部分もあるんだと。それで、それぞれの短編をつなぐ短い導入というか、繋ぎの話もあって。で、全体として一つのまとまった話になっている。 ブラッドベリは基本的に短編作家なのだな。有名な「華氏451度」は例外中の例外で。「火星年代記」も短編の寄せ集めのようなものやし。 「火星年代記」は人類が火星に移住していく過程を、火星人の衰退とともに描いていて、SFというよりファンタジーに近いような作品やったな。舞台が火星、年代が未来という設定が決まっていて、いろんな話を年代順に並べましたって感じの話やったな。 「塵よりよみがえり」はSFではなくて、スリラーかファンタジーかという話。ある屋敷に集まった、人間ではないものたちの一族の物語。その中にひとりだけ「人間」がいて、狂言回しのようにいろんなところに出てくるわけやけど。まずは屋根裏に住んでいる「ひい」が千回もつくおばあちゃんが、屋敷のできたいきさつや一族の来歴などを話し始めて。人間の子供がなぜここにいるのかという話や、いろんな親戚(!)の話などもあって。さて時は過ぎて現代になってくると、一族の住み家は現代人によって破壊されていくのですね。だいたい一族の存在そのものが否定されていく。そうすると一族は生きてはいけない(もともと生きてないんだけど)。そこでみんな、身を寄せ合うようにこの屋敷に集まってくる。そしてそれぞれがいろんな話をしだして。ということになっていくんですな。このあたり、火星年代記にさも似たりなんだけど。 そしてただひとりの人間である少年が、なんとか「ひい」が千回つくおばあちゃんを助け出そうとするんですね。ひとつひとつの話が面白い上に、全体のこのまとまりもなるほどと思わせる。さすがブラッドベリやな。 土曜日、図書館へ行って何冊か本を借りてきた。ぱぱぱっと選んだら、児童文学を含む外国文学ばっかりになってしまったな。もっと日本語のものを、と思って借りたのは恩田陸と五味太郎。なんとなく、真剣なもの、固いもの、難しいものを読もうという気にならなかったのかも。でも読みたいときに読みたいものを読めばいいや、と思ってる。仕事やないねんし。そのうちまた、いろんな本を読みたくなるやろう。新書とかね。 ゆるゆると 難しい本よりも優しい本に心ひかれるねえ。なんとなく、雨が続くとね。雨のせいでもないやろうけど。ちょっとのんびりしたい気分なのだなあ。 アヴィの「ポピー ミミズクの森をぬけて」(金原瑞人訳・あかね書房)は、前に読んだ「ポピーとライ」の前編になる話。恋人のラグウィードをミミズクに食べられてしまったポピー。そのミミズク、オカックスはネズミたちを守るふりをして餌にしている。ポピーたちネズミは数が増えて、森を抜けた新しい家に引っ越そうとするのだけれど・・・。 「ポピーとライ」を読んだあとで読んでどうなのか、と思ったけど、そんなことは関係なく面白かったな。ラグウィードとの話がもっと深く語られるのかと思ったけど、あっという間に食べられてしまうのですね。かわいそうに。 で、ポピーの大活躍でネズミたちも幸せに暮らせるようになるんだけど。この主人公が、勇気があって力もあってというのとは全然かけ離れているところが面白いな。これは「ポピーとライ」でも思ったけど。 ミミズクのオカックスとネズミたちの関係とか、寓話的になにかになぞらえて読み取ることもできるけど、まあ素直に楽しめるから、あんまりなにも考えなくてもよさそうにも思えるな。 五味太郎さんは好きな絵本作家のひとりです。ちょっと理屈っぽくて、斜に構えているようなところがあって、でもいやみがナイ。不思議な感じだね。 「こどもとおとなスクランブル・ノート」は、イラストつきエッセイ集のようなもの。なんというか、ものの見方がおもしろいね。ちょっと見方を変えると、こういうふうにとれるのか。そんな話が独特のイラストとともに楽しめます。 こういうのを読むと、普段自分がいかに型にはまった考え方をしてるかっていうことを思い知らされますね。まあ型にはまった考えも、悪くはないんだろうけど。時々はちょっと違った目線で物事を考えるのも楽しいでしょうね。そ。楽しくなくては。人生は。 同じ時期に同じような本を読むのはどうか たまたまなんやけど、同じような主人公の本を同時に読んでしまった。同時に、というのは、ひとつはハードカバーで家で、ひとつは文庫なので電車の中で。読み分けていたんだけど、どうしても比べてしまう。そしてその差が歴然としてるからなあ。 クリフ・マクニッシュの「レイチェルと滅びの呪文」(金原瑞人訳・理論社)は児童書、恩田陸の「劫尽童女」(光文社文庫)は普通の小説、という違いはあるけれど、どちらも「超人的な能力を秘めた少女の物語」という点では同じ。僕は児童小説やから、普通小説やから、という読み分け方はキライで、どんな物語にせよ「面白いかどうか」が問題なのですね。 「レイチェルと滅びの呪文」は3部作の1作目なんですと。地下室で少女がさらわれる。弟と一緒に。さらわれた先は地球ではない星イスレア。そこを支配する魔女と対決することになったレイチェル。いつのまにか不思議な力を身につけていくのだが、それが意外な方向へと自身を連れていくことに気がついて・・・。さて、イスレアの人々を救うことができるか。 まあ、よくある冒険話で。少女と魔女の対決、というのもありきたりやしなあ。魔女の風貌は、文字だけでは想像もできひんような醜いものでね。よおこんなもの考えたな。そして魔法の話だけにいろんな呪文とかが出てくるねんけど、細かい説明とかはなくてね。レイチェルが魔法の力をどんどんつけていくのも、どうもご都合主義のように読めてしまう。つまりは、展開がありきたりで、途中でだんだん飽きてくるんやな。 作者はIT関連の仕事をしてるんやて。だからかなあ。話の展開が「こうなったら面白くなる」っていう、その「展開」だけを楽しんでるような感じで。あ、ロール・プレイング・ゲームに似てるか。やったことないねんけど。 それに比べると恩田陸の「劫尽童女」は、とんでもなく面白い。先が読めなくてつぎどうなる?このあとは? と、どんどん読み進めてしまう。 DNA操作(それも明確には書かれていない)で生み出された超能力を持つ少女。年を経るごとにその能力は進化してゆく。元々は軍事目的(これもはっきりしない)の実験として作られたのだが、もちろん人間として成長もしていくのだな。やがて秘密組織「ZOO」に追われるようになり、逃亡し、そして身を守るために人も殺し・・・というと殺伐としたイメージやけど、なぜかこの人の小説には人のあたたかみのようなものが感じられるねんなあ。だからひどいシーンとかがあっても嫌じゃない。読み終わった後も、しらっとした気分にはならない。不思議やなあ。 SFなんやけど、単なるSFに終わってない。超能力を持った、つまり「他の人とは違う」ことに悩む姿も描かれていて。主人公に思い入れてしまうのですな。読みながら。そう思わせるところ、すごいなあ。 ついつい外国ものを手に取る それがどうしたってことなんやけど。なんとなくね。外国ものの方が面白いような気がするねんなあ。面白くなかったら、翻訳しようという気にならへんやろし。翻訳されているってことはすなわち、ある程度面白いってことで。ちょっと保険のようやね。 アレックス・シアラーは何冊目になるやろう。「世界でたったひとりの子」(金原瑞人訳・竹書房)は、題名からしてなにか感動できそうって感じやけど。それがちょっと不安でもあったんやけどな。「感動させます」っていう話はどうも好きになれないからね。それに「世界でたったひとりの」っていうのも気に入らんかってんけどね。ほんまのことを言うと。そんなこと、あたりまえやろうと思ったしな。 ところが読んでびっくり。「世界でたったひとりの」というのは、ほんまにひょっとすると「ひとりだけ」っていうことやねんな。これ、SFです。未来の話。あらゆる病気が克服されて、人間の寿命は飛躍的にのびた。100歳を超え、120歳、あるいはもっと先まで生きられるようになった。と、そうなると「老い」がいやになる。そこで「老化防止剤」をみんな飲むようになった。そうすると見かけは若いままだ。 ところが、みんなの寿命が延びると、今度は子供の出生率が減ってきた。というより、ほとんど子供ができなくなった。どういうわけか、生殖能力が低下したのだ。そうなった未来の話。主人公の少年タリンはディートという男と暮らしている。といってもモテルを泊まり歩く生活だ。ディートは親ではない。タリンを「カードの賭で勝って手に入れた」とタリンには説明しているが、ホントのところは分からない。お金を稼ぐのはタリン。「子供と遊びたい」という家に、1時間いくらで「貸し出す」のだ。もちろんそれは違法なのだけれど、子供がいないのでみんな「子供と暮らしてみたい」と思ってやっている。お金のある人は。 で、本物でない子供もいる。小さいときに「PPインプラント手術」を受けると、子供のまま成長が止まるのだ。(「PP」はピーター・パンの略らしい。)それでも普通の寿命(120歳くらい)は生きていられる。ただし子供の姿形のままで。元に戻すことはできないので、これも違法ということになっているが、やっている人間は多く、ショービジネスで成功している「子供」もいる。「世界で最もカワイイ55歳」とかいって。 ディートはタリンにも「PP」を受けさせようと思っている。そうすればいつまでも「貸し出し」ができて稼げるからだ。だがタリンは大人になりたい、とも思っている。なんとかディートの手から逃れたい。だがディートと離れては生きていけそうにない。町には「ひとさらい」がうろうろしている。子供をさらって一儲けしようとする人間が大勢いるのだ。さて、タリンの運命は。 わくわくドキドキの冒険小説? いやいや。いろんな事件は起こるけれど、ハラハラする場面はむしろ少なく、タリンの心の動きが話の中心で、なんというか、哀愁さえ感じさせる物語になっている。ブラッドベリの「華氏451度」を思い出させるな。いろんな場面(赤ん坊を散歩に連れて出た夫婦が、大勢の人にもみくちゃにされるところとか、PPを受けた「大人」が集まるバーの場面とか)が映画的で、とっても面白かった。ちょっと怖かったけどね。誰も彼もが40代にしか見えない世界を想像すると。 「子供」っていうのがキーワードになってるんやろな。それを「希望」と置き換えてもいいかも。死の恐怖が遠くに行った世界で、それでもみんなが欲しがったもの。それが「子供」ってことか。 ラストもいかにも映画的で。だれかこれ、映画にせえへんかなあ。子役が大変やろうけど。 アレックス・シアラーはこれで何冊目かな。いいのもあるしたいしたことないのもあったなあ。特にラストの組み立てに無理があるっていうか、もうちょっとひねって欲しいなあって思うことが多かったんやけど、これはもう、満足です。 ミシェル・デル・カスティーヨの「タンギー」(平岡敦訳・徳間書店)はぶたこが借りてきました。面白いから読んでみと言われてね。 第二次世界大戦を挟む、スペイン内乱から戦後までの、少年タンギーの物語。ジャーナリストの母親とスペインからフランスに逃げ、フランス人の父親としばらく暮らすけれど、第二次大戦が始まって収容所に入れられる。その後も孤児として施設(修道院)に入れられたり、スペインに戻ったり、また父親を頼ってフランスに行き・・・ まあ、いろんなことがありすぎてねえ。伝記にしたら面白いねんけど。ほんまやったら、もっとひとつひとつのエピソードを丁寧に積み重ねて欲しいところなんやけどナア。収容所での生活がひどいものなんやけど、それも1エピソードに過ぎないってところが。いやあもったいないなあって思ってしまったよ。もっとじっくり、主人公の人生に付き合っていたいのだけれど、それを許さないのだねえ。 時代の流れっていうのがそういうものだ、と言えなくもないけれど。 翻訳者の名前で本を選んでもいいのだ クリストファー・ポール カーティスは初めて読んだ。「バドの扉がひらくとき」(前沢明枝訳・徳間書店)は作者の祖父がモデルになってるんだと。 大恐慌時代のアメリカミシガン州フリント。主人公のバドはお母さんとふたりで暮らしていたが、そのお母さんが病死してしまう。バドは「子供の家」で暮らすことになるが、里親がみつかり越していく。しかし、その家の息子とけんかをして(よくある話だけど、その息子は甘やかされていて、うそつきで乱暴者。そしてその両親はバドより息子を大事にしている)、家出をする。持っているのは大きなカバン。中にはお母さんの写真と、なぜかお母さんが大事にしていた石とチラシ。チラシは別の町のバンドの広告。このバンドマンがきっとお父さんに違いない、だってお母さんが大事にしていたものだもの。というわけで、バドはひとり、その町を目指すことになるのだが。 大恐慌時代の雰囲気だとか、人種差別だとか、親子愛だとか。まあそういうものがいっぱい詰まった話なんだけど。説教臭くもないし、といってアウトロー的でもない。とにかく全編にわたるユーモア(それはバドのユーモアなんだけど)がとっても面白くって、ハラハラもするんやけど、どんどん読めてしまう。 よくある「孤児だけど頭のいい素直な子が、幸せになりました」というような話じゃないところが面白い。いざというときには嘘もつく。うまく生き延びるにはそれくらいしないと。なんて考えているところが面白いなあ。他のも読んでみたくなったな。 デイヴィッド・アーモンドの「火を喰う者たち」(金原瑞人訳・河出書房新社)は、不思議な物語やった。イギリスの海辺の町。主人公の少年ボビーは有名(たぶん)中学に入学する。しかしそこは教師(僧侶)による体罰が日常的に行われていた。ボビーには子供の頃からの友人も居る。また同じ中学に通うことになった「よそ者」のダニエルもいる。それから大道芸人のマクナルティー。実は彼はお父さんの知り合いだった。戦争で頭がおかしくなって、大道芸をするようになった(らしい)。折しもキューバ危機がおこり、世界は第3次世界大戦→人類滅亡の不安に包まれて・・・。 はっきりと「こういうことがあって、こういう理由でこうなった」というのがいっぱい省略されていて、それは読み手が考えないといけないんですよね。それが楽しいねんけどね。いろんな事件が重層的に起こって、そして海岸でのひとときに集まっていくんですね。それが、とっても劇的にそうなるんじゃなくて、すごく淡々と「自然にこういうことになりましたあ」っていうところがまた、とってもユニーク。核戦争とか差別とか、内容はすごく激しいものがあるのに、物語の印象はとっても「静か」なんですね。なんか、ええなあ。こういう話を書ける人。 翻訳家になるつもりはないけど、中島さなえの「翻訳家になるには」(ぺりかん社)は読み物として面白い。雑誌の特集記事を読んでるみたいやった。「翻訳者で読者に選ばれるようになったら成功」って書いてあったな。翻訳者で選ぶ人って居てるってことやな。なんというか、書評を読んでるようなものやからな。 いろんな翻訳者の仕事ぶりとか経歴とか。なんで翻訳をするようになったかとか。いろんな記事があって面白かった。もちろん真面目に「翻訳業」についてのガイドもあって。どれだけの収入が見込めるかとか、実際の仕事にはどんなものがあるかとか。けっこう細かく書いてある。知らんことも多かったな。当たり前か。 これ、ぺりかん社の「なるにはブックス」というシリーズなんですね。ほかのも面白そうやから、機会があったら読んでみよう。いっぱい出てるし。 題名にひかれて読んでみた 本の題名は「はなうた日和」。山本幸久著(集英社)。こういう題名にひかれるっていうのは、どういうことなんやろう。なんとなく、安らぎというか、癒しを求めていたのかなあ。山本幸久という人がどんな人か知らんかったし。でも本の装丁(黄色い地平線に男のひと(?)が立ってる)がきれいやったし。なんとなく癒されそうな気がして。あ、やっぱりいやされたかったのか。 まあそんなわけで読んでみたら、これがすばらしくよかった。連作もののような短編集なんやけど。それぞれが別々の話なんやけど、ちょっとずつつながってるところもある。テレビヒーローの敵役のスカイスイカ閣下とか、世田谷もなかとか。それがまあいわゆる狂言回しのようになっていて。で話の筋はどおってこともないねんけど。どおってこともない話を読ませるにはなにしろ文章力がいる。その文章力がとってもあるんですね。うまいなあ、と思いつつ読んでるといつのまにかその世界に入り込んじゃってて。やられたなあ。 そして最後には、胸にぐっときてしまうんですね。ああ、久しぶりに胸にきたなあ。 「私は死ぬのは恐くありません。」 もうこの先は、自分で読んでください。このフレーズは使い古されているようで、なかなか心には響けへんねんけど、今回は来たなあ。わしも年をとったか、と思ってしまったが。 あんまりよかったんでちょっと著者を紹介しておくと。2003年にすばる新人賞を受賞した人で。1966年生まれやから、そんなに若くもない。といって中年といったら失礼やな。この小説の主な舞台となっている世田谷に住んではるそうです。世田谷に詳しい人、東京に詳しい人なら、僕よりもっと面白く楽しめるんやないかな。 「はなうた日和」は大学の図書館で借りてきました。実はもう1冊、いい題名やなあと思ってちょっと読んでみてんけど、内容があんまりぱっとしなかったんで、その場で1章だけ読んで借りて来なかった本もあったんやけど。名前が思い出されへんのだ。まあ思い出されへんぐらいの本やったってことやねんけど。備忘録で「面白くなかった」って書いておきたいねんけどなあ。先日、新聞の広告にも載ってたし。思い出したらかいときます。 読んですぐに書くこと ああよかったなあ、と思ったら、すぐに書き留めておかないと、なにがよかったか後で思い出そうと思っても思い出せなくなってたりするんですよね。昨日の「はなうた日和」は、とってもいい本やのに、一日書くのを置いていたもんやから、はて詳しい内容はどんなんやったかなあと、思い出しつつ書かないといけなかった。そうすると、読み終えたときの何ともいえない感動が薄まってきてしまうんですね。まあ、読んだすぐあとの感覚より、しばらく間を置いた方がしっかりとした感情で、感想も書けるのかもしれないけれど。でも細かいところを忘れてしまうのがなあ。なにしろ記憶力が薄れてきているのだな。どうしようもない。 で、しばらく経ったらまた、ちょっとした内容を思い出すんですね。「世田谷もなか」以外にも(^◎^;)。ほんで「ああ、あんなこととか、こんなことをちゃんと書いておいたらよかったなあ」なんて後悔するんですけどね。いい本やったから余計にそう思ったんやな。とにかくいい本です。改めて言うのもなんですが。 今、一冊読み終わったところ。上に書いたようなことがあるので、忘れないうちにいろいろ書いておこう。あ、これは自分のための感想であって、誰かに内容を分かって欲しいとか、そういうことではありません。ですので、「中身がよう分からん」ということになってしまうかも。まあいいや。 デイヴィッド・アーモンドを読むのは2冊目。「闇の底のシルキー」(山田順子訳・東京創元社)。前に読んだ「火を喰う者たち」もよかったけど、これもすばらしい出来。なんでもこれが長編2作目だったそうで。一応児童文学の部類に入るんだろうけど(主人公は13歳の少年やし)、大人が読んでも十分楽しめる。というか、大人と子供の違いってなんやろうとさえ思ってしまったな。 主人公のキットは13歳。おじいちゃんの住む田舎の炭鉱(だった)町に引っ越してくる。両親といっしょに。おじいちゃんも炭坑夫だった。そうとうもうろくしていて、先が長くないみたいだ。キットの同級にアスキューという少年がいる。父親は飲んだくれで暴力も振るう最低な男。アスキューもやや荒っぽい気性。 そのアスキューがリーダーとなって、子供たちは「死」のゲームをする。仲間の一人を廃坑に一人きりにするのだ。暗い廃坑でひとりになって、臨死体験をしようというゲームだ。そのゲームで一人になることになったキットは、そこで思わぬ体験をする。そしてアスキューと自分とのつながりを感じ、彼を闇から救おうとする。しかし、どうやって? 題名の「シルキー」とは、廃坑にいる(らしい)妖精のようなもの。おじいちゃんは炭坑夫をしているときに出会ったという。シルキー自身が何かをする、という話ではないのですね。そのほかにも、キットには昔炭鉱で死んでいった少年炭坑夫たちの幻を見るんですね。いえいえ。それは幻とは限らないのですよ。などと思い出すと、もうこの作者のペースに引き込まれてるってことになるんですね。 「火を喰う者たち」もそうやったけど、廃坑や幻の少年たちやシルキーや「死」のゲームといった、ちょっと恐ろしい内容なんやけど、全体のトーンは静かなんですね。激しい場面がない。「恐い!」と思うところもそんなにない。だから読んだ後に嫌なものが残らないんですね。もっと読みたいと思ってしまったな。 予想が外れ レベッカ・ブラウンという著者名はきっと女性だろうし、翻訳が柴田元幸さん、題名が「体の贈り物」(マガジンハウス)っていうから、これはきっとジャンキーな小説、もしくはセクシャルな内容か。たとえば体を張って生きているニューヨークの女の子の話とか、で、翻訳が柴田さんやから(こればっかりやな)きっと現代のニューヨークを描いてるはずやし(思い込み?偏見か?)、どうやら最近の小説みたいやから、面白そうやと思って読んだんですな。 舞台がニューヨーク、というところは思ったとおりやってんけど。読み進めるとどうも様子がおかしい。予想したような展開にはならない。女の子が男の子の部屋をたずねていって・・・。ナニをするのかなあ、と期待してたら、掃除とか食事の世話とか。どうもおかしい。で、読み進んでいくうちに分かってきた。この話。末期エイズ患者の生活支援サービスをする女の子の話なんですね。先入観たっぷりで、どうもすみませんでした。 全11編の短編。全部が同じ主人公(わたし)やから、つながってるともいえるけどね。それぞれの話、一つ一つを取り上げても、とても面白い。こういう話を読んで「面白い」というのは不遜なようにも思うけど。でも、妙に深刻にならず、情緒過多に陥らず、むしろ淡々と書き綴られているところに好感が持てます。 患者もいろいろで。静かに病気を受け入れる人。子供のように駄々をこねるひと。見た目にも衰えていっているのに、いつまでも元気で居ると思い込んでいる人。それぞれに暖かい目を注いでいて、それでいて感情は抑えられている。といって、たんなる現場レポートじゃなく、ちゃんとした物語になっている。 こういう文章を読むと、ある意味で自分がその場に立ち会っているような気になります。そして、自分はエイズに対してどれほど知っているかっていうと、ほとんどなにも知らんねんなあっていうことを思いしらされたり。あるいは、死期が迫ったらどうなるんやろう、周りの人は、そして自分は、などということまで考えさせされてしまったり。 そういう風に「考えさせられる」小説でした。それが、あんまり深刻に落ち込まずに考えることができる、そういう気にさせる、見事な物語でした。 |