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読書日記


←前月 2日 教育的な本は面白くないのだが、

【あのころはフリードリヒがいた】ハンス・ペーター・リヒター(上田真而子訳・岩波書店)

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7日 小説雑誌

【AMEBIC】金原ひとみ(すばる2005年7月号)

8日 あたらしい小説とはなんだろう

【優雅で感傷的な日本野球】高橋源一郎(河出書房新社)

9日 フランスものは性に合わないのだろうか

【六月の長い一日】ロジェ・グルニエ(山田稔訳・みすず書房)

10日 子供は親の子供なのだ

【若かった日々】レベッカ・ブラウン(柴田元幸訳・マガジンハウス)

15日 あっちを読みこっちを読み

【世界でたったひとつのわが家】大平一枝(講談社)
【バースデイ・ストーリーズ】村上春樹編訳(中央公論新社)

17日 いろんなものを読むとごっちゃになる

【サンカの民と被差別の世界】五木寛之(講談社)
【妖精のアイルランド】下楠昌哉(平凡社新書)

22日 ごちゃごちゃな世界

【アムニジアスコープ】スティーブ・エリクソン(柴田元幸訳・集英社)

29日 こんなん読みませんでした

【チーズはどこへ消えた?】スペンサー・ジョンソン(扶桑社)
【リヴァイアサン】ポール・オースター(柴田元幸訳・新潮社)
【ニューヨーク 芸術家と共存する街】塩谷陽子(丸善ライブラリー)
【辻】古井由吉(新潮社)

5月2日(火)

教育的な本は面白くないのだが

そんなことを決めつけてはいけないなあと思いつつ、昔学校で「選定図書」とかになってたような本は、避けてきたなあ。創じゃない本の方が面白い。断然面白いに決まってると決めつけてたからな。いやほんまに、決めつけはよくありません。

「あのころはフリードリヒがいた」(岩波書店)は、第二次大戦中のユダヤ人迫害の物語。ということはよく知っていた。だから、どうせ(こんな言い方も失礼やけど)戦争中の悲惨な状態とか、ユダヤ人が迫害されて、ああかわいそうとか、戦争はひどいとか、ナチスはひどかったとか、そんな暗い気分にさせられて、「さあ、戦争反対といいなさい」というような物語だろうなあ、なんて思ってた。だから今まで避けてたんですが。

前に読んだ「翻訳家になるには」に、この本を翻訳した上田真而子さんの話が載っていて。翻訳しつつ「こんな話でいいのだろうか」と悩んでしまったと書いていたので、「翻訳しつつ悩むなんて、どんな話なんやろう」と興味がわいて読んでみたのでした。

1925年から1942年までのドイツでの物語。1925年に生まれた「ぼく」とフリードリヒ。同じアパートの1階上に住んでいるシュナイダーさんの息子がフリードリヒ。同い年ということで、ふたりは仲良くなっていく。しかしシュナイダーさん一家はユダヤ人だった。はじめのうち、「ぼく」の家族よりもシュナイダーさんの方が裕福でいい暮らしをしていた。しかし時代が進むに連れて、ユダヤ人に対する迫害が強まっていく。

この、徐々に強まっていく迫害というのが、とてもリアルで恐ろしいです。知らないあいだに決まってしまう法律。ユダヤ人の家にお手伝いに行ってはいけないだとか、ユダヤ人の子供はユダヤ人学校に行かなければならなくなるだとか。しまいには、財産も取り上げられたり。もちろん、救いようもなく、いきなり迫害されるわけではないんですね。ドイツ人の中にも同情的な人はいるし、なんとかユダヤ人を助けたいと思う人もいる。「ぼく」のお父さんもそう。しかしユダヤ人を助けたら、自分たちの身に危険が及んでくる。その板挟み。

いえいえ、板挟みだけではありません。そこには、ユダヤ人に同情しつつ、ごく自然に「ハイル・ヒトラー!」と言ってしまう矛盾もあるんですね。その矛盾に気がつかない人たちが恐ろしい。さらには、フリードリヒも、ヒトラー・ユーゲントにあこがれたりする。なんで? いやいや。それが当時の子供たちの常識だったんでしょうねえ。

そういうことが、余分な感情ぬきに淡々と語られていて、さらに恐ろしいです。大声で反戦を叫ぶわけでもなく、迫害を告発するでもなく。だから、読み終わったあと、心にズシッとしたものが残ります。

それにしても。このラストは、いままで僕が知ってる戦争小説のなかでも、やりきれなさという点ではダントツでしょう。「え? これで終わり?」と思ってしまった。そう、ものごとはあっけなく終わってしまうものなのですね。ああ恐ろしい。


5月7日(日)

小説雑誌

小説雑誌というのがありまして。あんまり興味はなかったんですが。植草甚一さんが書いた「小説は電車で読もう」を読んでから、ちょっと面白いかもとか思ったけど、実際に読むまでには至らなかったな。でもいろんな人のいろんな小説を読めるっていうのは面白そうやなと思ってた。

で、このまえ市立図書館に行って、「すばる」を借りてきたのだな。それは金原ひとみの「AMEBIC」(すばる2005年7月号)が載ってたからっていうのが大きいねんけど。金原ひとみといえば、先週から朝日新聞の読書欄に連載が始まっていて、ああ、ちょっといいかもなあと思って、またちょっと読みたくなったのだった。まあそういうのもあって、「すばる」を借りてきたのだな。で、結局は金原ひとみしか読めへんかってんけど。

「AMEBIC」ですが。主人公(作家)の日常をだらだらと綴っていて、なんというか、感覚的な小説やったな。そういう理由づけも無意味なんやろうケド。錯乱と正常の隙間というか、行き来というか、そういうのを綴っていてね。

でもなあ。まあ久しぶりにこういう小説を読んだけど、特別新しいことをしてるわけでもないしなあ。なんとなく、無理してるって感じがしたなあ。「蛇にピアス」を読んだときは、とんでもない話なのに雰囲気が正常なのが面白かったけど、これは逆。なんかなあ。いろんな事に挑戦しようとしているのか、ともかくいろんなことがやりたいだけなのか、よお分からん。分からんままに最後まで読んでしまったよ。

ひょっとして、何か悩んでるのかも。なんて、心配してもはじまらんのだが。


5月8日(月)

新しい小説とはなんだろう

僕は感覚的な小説がキライではない。どちらかというと好きな方だと思うなあ。だらだらと書かれているようなもの。それをまあ、初めのうちは真剣に、いちいちの意味を考えながら読んでるところもあるのだけれど、だんだんとその文体そのものに「酔って」いくようになって、ちょうどまあ酔っ払ったような状態になるんですな。といっても、最近酔っ払った経験から遠ざかっているので、本当にそうなのかどうなのか分からないんだけれど。でも「妙に気持ちイイ」のは間違いない。

とはいえ。酔いたいときと場所というのもあるわけで。いつもいつも酔っ払ってばかりやと、感覚もおかしくなるし。とそんなとき読んだ高橋源一郎の「優雅で感傷的な日本野球」ですわ。これを「感覚的な」というたら、きっと作者にバカにされるか、「ほほお」くらいは言ってもらえるか。

題名に「野球」がついてるけど、野球そのものについて書かれているわけじゃなくて。あ、いちおう小説なんですけど。これ、小説という形から、ちょっと離れているような感じ。まあそれを狙ってるんやろなあ、っていうあざとさはちょっと見えるけど。

奥付けを見ると、初版は1988年になってる。阪神タイガースが日本一になったのを受けて書かれているってことは、よく読めば分かることなんやけど。パロディ小説のようで、感覚小説のようで。そういうジャンル分けがナンセンスなことは知ってるねんけど。

ただ言えるのはね。これが書かれた20年前と今とでは、ちょっと時代が変わってしまったなあってことやね。書かれた当初は新しい小説やってんやろうけど。今読むと、新鮮味がない。もちろんコレ以降、これを真似たもの、模倣したもの、同じ手法で書かれたものが続々と出てきたからってことやねんけど。今読むと、ちょっとツライなあ。


5月9日(火)

フランスものは性に合わないのだろうか

気がつけばアメリカ文学ばっかり読んでるような気がする。まあたまにイギリスものが混ざるけど。しらん間にイギリスものを読んでるってこともあるけど。ともかく英語圏の文学が多いなあ。ヤングアダルトものが好きなのでそうなってしまうのか。

国によって文学の違いっていうのはあるのかなあ。たぶんあるんやろうなあ。明確にこうっていうのは無くなって来つつあると思うけどね。情報化が進んだ現代ではね。で、たまには、と思って読んだんです。ロジェ・グルニエの「六月の長い一日」(山田稔訳・みすず書房)っていうのを。題名に惹かれたんやけど。なんとなく面白そうな題名やん。

古い友人である男女ふたりの、会話が主な物語。女性のローリスは名門出のシモンが好きだった。しかし戦後、シモンは挫折していきます。その成り行きを友人だったルネが語ってゆく、というのが主な筋。戦時中のレジスタンス活動、戦後の混乱。いろんなことが時間を越えて交差するような物語です。

で、はっきり言うと、分かりにくいです(^◎^;)。ちょっと読みのがすと、今しゃべっているのが「現在」のことなのか「過去」のことなのか。僕みたいにさささっと読み進めていくような読み方をしているとなにが何やら、ということになってしまうのですね。

少ない登場人物のそれぞれの性格とかが、短い小説の割には克明に描写されていて、それぞれは面白いねんけど、一番肝心の「シモンはなぜ挫折したのか」というのははっきりしないまま。推測の域を出ないんですね。まあ人生はそんなもの、と言ってしまえばそれまでなんやけど。

ところどころにハッとするようなフレーズとかが隠れていて、なんとなく読んでいて、急に(僕にとってはそんな感じ)そういうフレーズに行き当たると「エッ?!」と思ってしまうんですね。そう、なんか小説を読んでるっていうより、詩を鑑賞してるっていう気分になってしまいました。

フランス文学は分かりにくいのかなあ。いやいや、いままでジュネとかサルトルとかも読んだけど、普通に入り込めたであるよ。つまりは作品によるっていうことですね。当たり前な結論ですが。


5月10日(水)

子供は親の子供なのだ

レベッカ・ブラウンの「若かった日々」(柴田元幸訳・マガジンハウス)は、作者の自伝的な小説なのだろう。初めの章を読んだときは、これはいったい何を書こうとしているんだろうと思ってしまったけど(あまりにも独白的、詩的だったもので)、読み進めると、前に読んだ「体の贈り物」同様、感情的にならない書き方で、淡々と綴られていくのですな。

戦争に行きそびれたのに、自分の武勇伝を語りたがる父親。つまりは嘘つきでプライドばっかり高い、ろくでもない人なんだけど、自分がその父親の娘であることを受け入れていくんですな。まあ仕方なく、ということもあるんやろうけど。さらに、ガールスカウトのキャンプで芽生えた同性への愛情とか。いろんなことが綴られる。それぞれおもしろい話なんやけど。

どことなく、胸に迫るものがあるのは、翻訳のうまさもあるんやろな。最後の章は、ちょっとぐっときたな。そう、個人の自伝なんだけど、そこに共感するものがあったのだな。共感できるかどうか。それが、本を読んで楽しめるかどうかの決め手でもあるからな。


5月15日(月)

あっちを読みこっちを読み

どうも読書に統一したものがない。あれを読みコレを読み。電車に乗ったらコレを読み、家ではあれを読み。などと、一度にいろいろ読んでる状態。飽きっぽい性格なのかなあ。途中まで読んで、ちょっと他の本が読みたくなったりして。でも最後まで読まないとやっぱり気持ち悪いから、また元に戻って同じ本を手に取る。

そうこうしているうちに、まあ1冊読んでしまうわけですが。大平一枝さんは前に「ジャンクスタイル」っていう、とっても楽しい、一方で考えさせられるインテリアスタイルの本を書いてはった。「世界でたったひとつのわが家」(講談社)も同様。自身が建てた(というか、設計に携わったというか)コーポラティブハウスの、出来上がって以降の話。思い通りに家が出来上がって「うほほ」と思うところと、住んでみて初めて気がついた思い違いに「とほほ」と思うところ。その両方が書いてあって面白いなあ。

考えてみたら、インテリアとかハウジングの本って、「うほほ」しか書いてないんですよね。そんな「なにもかも思ったとおり」になるはずもないのに。そういう本って、最初は「いいなあ」と思って眺めるねんけど、あまりの生活感の無さにだんだん飽きてくるというか。「必要な情報は載ってないな」と諦めてしまうんですね。よくあるお宅訪問番組で「こんなきれいにしてる家はないやろお」と突っ込みたくなるのと同様でね。

で、この本はその全く逆をいってるんですな。それが、建て売りとかじゃなく、自分たちで設計から関わったにも関わらず(変な言い方やな)、思い通りにいかなかった。ははは。こういうことって、けっこうあると思うなあ。

で、さらにこの本が面白いと思えるのは、そういう失敗をしても全然めげていないことですね。その失敗を「しまったあ」と思いつつ「ま、しゃあないか」と受け入れているところがエライ。そうそう。うまく行かないことも受け入れる気持ちが大事やね。誰に言ってるんだか(^◎^;)。


村上春樹が企画した「バースデイ・ストーリーズ」(中央公論新社)は、題名のとおり、誕生日にちなんだ小説を集めたもの。それも現代の作家のものが中心。ついでに(と言っては失礼やな)村上氏自身の短編も収められている。

あとがきでも触れられてるけど、いわゆる「ハッピー・バースデー」的なものはほとんどなく。切ない、哀しい、むなしい、寂しい話が大半です。全部で11編が収められてますが。それぞれすばらしい。一番最初の、ラッセル・バンクスの「ムーア人」で、すでに「やられた!」と思ってしまいました。まあ中には、ちょっと「ありがちかな」と思うような話もありますがね。ありがちっていうのは、小説的にありがちってことですけど。中では僕はダニエル・ライオンズの「バースデイ・ケーキ」が気に入ったな。あと、ついでって言ったけど、村上春樹の「バースデイ・ガール」も。こういう雰囲気の小説、大好きです。謎が謎のまま終わる。


5月17日(水)

いろんなものを読むとごっちゃになる

昨日書いたみたいにあっちを読みこっちを読みしていると、いろんなことがごっちゃになってしまった。途中まで読んでから「はて? これはなんの話やったかいな」と戸惑うことしきり。この人のお母さんはこの人で、と思ってたら全く違う話の内容やったりして。それがフィクションを同時に読むとそうなりやすいと思って、意識してノンフィクションを選んで読んでるはずやのに、なぜかまた頭の中でごっちゃになってしまってね。いけませんな。

そうすると、電車で読み、家で読み、という「読み分け」をすることがかえって能率が悪いというか。能率の問題じゃなくて、何を読んでるかの問題なんやけどね。つまりは内容が頭に入らなくなってくるって事。これはいけません。時間の無駄。無駄はいけません。

というわけで。ともかくも一冊の本を電車でも会社でも家でも読んで、読み終わっていくことにした。

五木寛之の「サンカの民と被差別の世界」(講談社)は、副題が「日本人のこころ 中国・関東」となってまして。第1部が瀬戸内海の「家船(えぶね)」漁民と「サンカ」という山の民の話。第2部が関東の、特に東京にあった差別の話。エタ頭の弾左衛門と非人頭・車善七の話。

「サンカ」っていうのは聞き慣れへん言葉やけど、中国地方の山あいに暮らす、定住しない人たちの事なんですね。今はもう忘れ去られようとしているサンカについて、その地をたずねるというものです。まあ紀行文ともいえるかな。

瀬戸内海には、船上生活をする「家船(えぶね)」と呼ばれる人たちも居たそうで。全然知らんかったなあ。村上水軍っていのも、名前だけしか聞いたことなかった。まあ歴史には疎いんですけどね。

こういう差別・被差別の歴史を探るような話になると、その差別の実態がどうやったかとか、人権は大事やとか、そういうちょっと説教臭い話になりがちやけれど、五木寛之の視点はもっとクールで、しかし暖かい。うーん、「クールで暖かい」って、どういうことやねん。うまくいわれへんなあ。つまりはね、偏ってないねんな。

そこには、歴史の中心に居たのが、教科書に出てくるような人なのではなくて、底辺に生きていた庶民であり、それには敬意を払うべきやという考えがあるような気がするねんなあ。ちょっと堅苦しいいいかたやけど。

「隠された歴史のひだを見なければ『日本人のこころ』を考えたことにはならない」と書いてはるように、影の部分をしっかり見ようという勇気と、それを「悪」と決めつけない偏りのなさが、読んでいても気持ちのいい原因なんやろなあ。勉強になったし、面白かった。


アイルランドっていう国にちょっと興味があって。ジョイスの国、U2の国。で「妖精のアイルランド」(平凡社新書)っていうのが、面白そうで読んでみた。

で。まあ五木寛之を読んだ後ではねえ。ちょっと読みごたえがないというか。なにより、この人(下楠昌哉)の主張がどこにあるのか。アイルランドを「妖精の国」としてとらえて論じているのか、そうではないものとしてとらえているのか。ちょっとわかりにくい。さらにワイルド、ハーン、ジョイスを、ひとくくりに「アイルランドの作家」として、妖精と絡めて論じるのはちょっと無理があるんちゃうかなあと思ったな。どうもこじつけに思えるところもあってね。


5月22日(月)

ごちゃごちゃな世界

以前、初めの方だけ読んで挫折した本を、もう一回読んでみることにした。スティーブ・エリクソンの「アムニジアスコープ」(柴田元幸訳・集英社)だ。

舞台は大震災のあとの「架空の」ロスアンジェルス。周囲の町とは隔離されてしまっている。ところどころに震災のあとのクレーターまである。山火事が町に及ばないように(らしい)わざと森を燃やしている。その炎に映し出される廃墟の町。と、こうくると何かSF的な、最近のアニメかなにかの材料になりそうな話に思えるけれど、内容は全然そんなことはなく。主人公は新聞社に勤める「自称」作家。その「非日常的な日常」が綴られるという内容。

恋人のヴィヴはどうもおかしい。いやこの語り手である主人公もおかしいし、その周りに居る人みんながどこか狂ってる。なんか変やナアと思って読み進めているうちに、その世界に入り込んでしまうので、最後まで読んでしまったのだな。

途中はまるで哲学書を読んでいるような気分になるところもあり。そうかと思うと、官能小説のようなところもあり(だいたい恋人との接点はほぼ肉体に限られるし、そのほかの女性関係も、なんというか、かなりええかげん)。

かと思うと、公園で自作の小説の朗読会を開こうとして、照明が落ちて真っ暗になってしまう話だの、ポルの映画の脚本を書いて、いざ撮影というときに俳優(女優)の頭がおかしいので、代わりに裸になって(なんで?)セリフを言うはめになったり。

とにかくぶっ飛んだ小説であることには間違いない。こういうのは、好きな人にはたまらんでしょうし、「普通の」小説を読みたい人には、逆の意味でたまらんでしょう(^◎^;)。

題名の「アムニジア」というのは「記憶喪失」という意味らしい。主人公が陥ってる状況がそうで、それ以上に、町全体が記憶喪失状態。というか、時間感覚が曖昧になってる。真面目に読んでいて、ときどき「あれ? これって夢の中の話? それとも現実?」と思うことがしょっちゅう。その感覚が楽しめたら、最後まで楽しく読めるな。はい、最後まで楽しく読ませていただきました。

でね。この本、図書館で借りてんけど、値段を見たら2800円(税別)もするんですね。260ページ足らずの本やのに。もうちょっとリーズナブルになってくれたらナア。いやそれでも買えへんけど(^◎^;)。


5月29日(月)

こんなん読みませんでした

野球が毎日あるから、本を読む時間は極端に減っているのだよ。毎日、ほぼ3時間、ことによるとそれ以上はテレビにかじりつき。あるいはラジオに。おかしいよなあ。そんなわけで読書時間は一時期に比べてガクッと減りまして。


「チーズはどこへ消えた?」(扶桑社)は大学図書館で見つけて、その場で読んでしまったよ。ベストセラーになったんやったな。とくにビジネスマンの間で。で、読んでみたら、何のことはない、ビジネス書、ビジネスの啓蒙書やんか。間に寓話がはさまったディスカッション本、やね。で、寓話が「チーズはどこへ消えた?」となるわけで。まあ、そういうこともあるやろうけど、という程度の話でね。その程度の話を、「いい話や!」と盛り上げるのが前後のディスカッション、とこうなるわけですな。この前後のディスカッションがいかにもうさん臭いので、本の質を低めてると思うけど、この部分がないとこの本を書いた意図が伝わらないわけで。という矛盾をはらんだ(大げさな言い方。これがこの本の本質だ)本でありますな。読んどいて損はないか。でもこの本を読んで「まさにそのとおり!」と思う人は、そうとうおめでたい人やと僕は思うけどな。


で、本題に入りましょう。読みかけてはやめた本、途中で挫折した本が次々に出てきまして。なんだかなあ。最後まで読んだら、「うわっびっくり!」という結末が待ってるのかも知れへんけど、どうも先に進みようがないっていう本。あるいは、じっくり読み進めているうちに返却日が来てしまって。延長して借りようかどうしようか迷ったけど、「とにかく最後まで読みきらないと、気持ち悪くて寝られへんよお!」とも思えないので、途中まで読んで返した本。そゆのが3冊ほど。

前者の1冊目。ポール・オースターの「リヴァイアサン」(柴田元幸訳)は結構有名な本なんとちゃうかな。日本ではオースターはよく読まれてるみたいやし。この前久しぶりに本屋に寄ったら、オースターの本が文庫本で4,5冊も並んでてびっくりした。こういうのは図書館通いをしているだけではわかりませんな。

舞台はニューヨーク。いきなり友人が路上で車の爆発にあって粉々になってしまうというところから始まって。それはどうやら自殺?という謎とともに、その友人と自分とその周りの人たちの話が始まるわけですな。どうして路上で爆破などしたのかという謎に迫っていく・・んやろなあ。途中でやめたから分からんけど。

いきなりの衝撃シーンと、それに続く警官とのやり取りとかまではよかったんや。お、ちょっと面白そうやん、これからどうなるの?みたいな期待が膨らんでいってんけど。話が進むに連れて、だんだんだらだらした展開になっていってね。話に付き合っていく(ほんまにそんな感じがした)のがしんどくなってきてね。なかなかその爆破した本人の話に行き着かないのも、なんだかなあっていうかんじやってんけど。半分まで読んで挫折。最後まで読んだら「おおっ」とか思ったんかなあ。

最初に衝撃シーンを持ってきて、そのあとにモノローグ的にいろんな話を展開するっていう手法は、まあよくあることやけど、どうもあざといような感じになってきてね。こういうの、前にも読んだなあと思って考えたら、そうそう、郷ひろみの「ダディ」を思い出してしまったよ。もちろん、あんなにつまらなくはないけどね。比べてすみません。


その2。塩谷陽子著「ニューヨーク 芸術家と共存する街」(丸善ライブラリー)は、ニューヨークでの「芸術家」に対する制作の話と、実際にそこで活動する芸術家たちの話。だと思う。途中まで読んだ感じではね。

始めの、「芸術家証明書」とかの話はまあ面白かったけど、実際の芸術家を紹介する段になると、どうもどこかの大学の入学案内か、住宅団地の宣伝のようにも思えてくるし、また、「生活ノウハウ本」のようにも読めてしまう。つまり「これからニューヨークに行って生活したい芸術家たち」のために書かれているっていうか。それでも面白い本っていうのはあるんやけどね。この前読んだ「なるにはブック」みたいに。そこまではいけへん。まあそういう位置づけの本でないからね。というわけで、途中から面白みがなくなった。


もう一つのパターン。面白かったけど返却しちゃった。古井由吉の「辻」(新潮社)は、面白かったですよお。古井由吉っていままで読んだことなかったんやけどね。雑誌「群像」に載ってた「白い男」っていうのを前に読んで。へえーっ、こんな風に書く人が居てるのかと思ってびっくりしたんやな。しかも年配の人らしい。

「白い男」っていうのは、戦争中、焼け野原を歩いていた、肌の白い男の人の話。ってこれだけ書いただけでは面白みも何もないね。物語の最初の方はなんだか哲学書か学術書を読んでいるような気分にさせるねんけど、途中から戦争中の話になって、あれれ、と思ってたら最後の方で「ぞくっ」とさせられる。その持って行き方というか、バランスの取り方が今まで見たこともないようなものやったのでびっくりしたんですね。

それで古井由吉っていうのが僕の中である位置を占めることになったんやけど、図書館の新刊で「辻」を見つけて、ちょっと読んでみようと思って読んだんですな。最初の3編ぐらいまで読んだかな。あ、これは短編小説集で、ひとつひとつは雑誌に掲載されたものです。いちおう連作なのかな。題名の「辻」が、それぞれの話のキーワードになってる。

「白い男」同様、最初はなんだか哲学書みたいでね。「辻」に関する定義か思いかがたらたらと書かれていて、なんのことやらと思わせられる。と、途中から現実の話になって、でもこれって現実?と思ってるうちに、この作者の世界に入ってしまうんですね。やられたなあ。でも気をつけて読まないと、自分がこの世界の中のどこにいるかが分からなくなりそうになる。だからじっくり読みたいねんけどな。また借りる機会もあるやろう。ほかの作品も読んでみたいし。


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