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読書日記


←前月 9日 笑いというものは

【漫筆・差別鑑賞】秋竜山(明石書店)
【ウースター家の掟】P・G・ウッドハウス(森村たまき訳・国書刊行会)

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11日 古典の新訳

【猫とともに去りぬ】ロダーリ(関口英子訳・光文社古典新訳文庫)
【マダム・エドワルダ/目玉の話】バタイユ(中条省平訳・光文社古典新訳文庫)

17日 面白いのと疲れるのと

【私は作中の人物である】清水義範(講談社文庫)

23日 本好きの書くことは面白い

【変身】カフカ(池内紀訳・白水Uブックス)
【寝ても覚めても本の虫】児玉清(新潮社)

30日 昔の本、新しい本

【江戸川乱歩全集・第1巻】江戸川乱歩(光文社文庫)
【世界の果てのビートルズ】ミカエル・ニエミ(岩本正恵訳・新潮社)


10月9日(月)

笑いというものは

秋竜山によると、笑いというものにはどこか差別的な感情が混ざっているらしい。「漫筆・差別鑑賞」の副題に、「上からの笑い・下からの笑い」というのがついているけれど、これが言い得てるような気もするなあ。そういえば、昨日の新聞に中島らもの新刊で、笑いについてシニカルに書かれてあるのが出たらしいっていうことが書いてあったな。あれも読んでみたいなあ。

秋竜山は昔から好きだった。面白い。なんというか、ばかばかしいとか大笑いするとかじゃなくて、ああ、こんなことあるなあ、とか、逆に「こんなことがあるはずはないやろお!」というのとか。時にリアル、時にシュール。どこか世の中を斜めに見てるようなところもある。

この本はすでに絶版になっているらしい。ちょっと前に福岡に旅行したとき、ホテルの近所の古本やさんで偶然見つけて、帰りの船旅の暇つぶしにと思って買ったのだった。それ以来、ほとんど読まずに置いていたのだけれど。ようやく読みました。

それぞれの一こまから数コマに至るまでのいろんなマンガ。それにそえてある解説というかひとことというか。裏話というか、教訓めいたことというか。

まあ、ひとつひとつは面白いんだが、これをまとめることにどんな意味があったのか、がよく分からない。「差別鑑賞」という題名も。まあ、笑いがそういう「タブー」とか「上下の関係」を含んでいるっていうことを、やや自戒的に言い含めてるんだろうけど。


ウッドハウス、という人は初めて読んだ。「ウースター家の掟」という題名からすると、どうやらサスペンスか? と思ったけど、コメディタッチの冒険もの(?)でした。

主人公のバーティー・ウースターは名士の青年。そして「友達のためには骨身を惜しまず」ということと「異性からの要請は甘んじて受けるべし」という心情(家訓、これが掟)のために騒動に巻き込まれてしまう。

非常に話がややこしいので、ここでかいつまんで内容を・・・という才能は僕にはない。どうぞ読んでください。そして一気に読んでください。

主人公バーティーとその忠実な執事のジーヴスのやりとりの面白さ。頭脳明晰にして礼儀を重んじ、なにより主人に忠誠を尽くそうとするジーヴスは、ほんとにおもしろいキャラクター。そのほかの、人のことなどお構いなしのバーティーの、同性・異性の友人たち。バーティーに異常なほどの憎悪を向ける判事のパセット。バーティーに強力な影響力を持つダリア叔母さん。ほんまにいろんな人に翻弄されるんですね。それがもう!

ええと、わけが分からなくなると思うけど、かいつまんで説明すると。ダリア叔母さんは骨董品の収集癖のある夫が、年代物のウシ型のクリーマーを購入するというところから始まって。ところがそれがどういうわけか(ほんまにどういうわけやったっけ?)判事のパセットの手に渡ってしまう。叔母さんはなんとかこのクリーマーを取り返したい。そこで甥のバーティーに頼み込む。一方、バーティーはパセットの娘に求婚されそうになっており、しかし友人のガッシーに娘の興味が傾いているのを見て、なんとか二人を結びつけようとする。どうみてもガッシーは(イモリ研究家)パセットの気に入りそうにないのだが・・・。ええとあと、パセットの姪っ子のスティッフィーは副牧師のスティンカーと結婚したいのだが、おじさんのパセットは許してくれそうにない。そこでバーティーに相談に行く。

と、なんでもかんでもバーティーの元に相談事が集まってきて、それが絡み合ってにっちもさっちも行かなくなったり、またひとつの厄介ごとが片づいたと思ったら、別の厄介ごとが(さらに大きな)巻き起こったり。つまりはドタバタ喜劇の様相を呈してくるのですな。

そして、いつも絶妙のタイミングで執事のジーヴスが登場して・・・と、どう解決していくかは読んでいただきましょう。

350枚以上もある大きな読み物なんやけど、最後まで、いや最後になるほど面白くて、楽しく読めてしまいましたな。あとがきを読んでから知ったんですが、これ第二次大戦の前に書かれたんですね。そんな風には思えない。とても現代的。訳のせいもあるのかな。

それと、ジーヴスのセリフをはじめ、いろんな古典からの引用があるんですね。訳注で説明してくれてはいるけれど、それを十分に楽しめるほどには古典に精通していないのが悔しいなあ。いちいちのパロディというか、引用を楽しむ、そういう楽しみ方もあるんやろなあ。


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10月11日(水)

古典の新訳

以前からうわさには聞いていて、心待ちにしていた企画。光文社の「古典新訳文庫」が刊行された。もちろん図書館に並ぶまで待って、借りてきました。入っていたのは2冊。

ロダーリという作家は知らないなあ。それに「古典新訳」といいつつ、「猫とともに去りぬ」は本邦初訳なのだな。

僕は知らなかったけど、アンデルセン文学賞などを受けている児童文学の作者なのだそうだ。他の本、読んだことないなあ。それにこの本を読む限り、児童文学の範疇に入りきれへんような人にも思える。

表題作を含む16の短編集。表題作は、人間をやめて猫になるおじいさんの話。猫の社会に入り込んだら、そこには自分と同じように人間から猫になった猫がいっぱい居た。そこでちょっとした騒動も沸き起こるけれど、たいした事件らしい事件もなく話は続く。

そのほか、水没しそうになるベニスで生き残ろうと魚になる家族の話やら、宇宙人にピサの斜塔を持っていかれそうになる(宇宙人のご婦人がクーポンをためて当てたので)話やら。一応ファンタジーということになってるけれど、どっちかっていうとナンセンスに近いような気がする。教訓的なことは全くといってないし。いや、ちょっとした風刺や文明批判や権力批判や、そんなところはあるけどね。

だから児童文学っていう感じが全然ないのだなあ。こんなの、こどもに読ませてどうする? ま、読んでもええけど。ちょっと稲垣足穂の「一千一秒物語」を思い出したな。そんな世界。


バタイユっていうのは、名前だけは知ってたな。でもどんな人だったのか。「マダム・エドワルダ」を読むとよく分かる。話の中心は性と死。というか、そのほかのことはたいして興味がなさそう。「目玉の話」になると、そこに「享楽」とか「退廃」とかいうことも加わる。うーん、こういうのを楽しむのは難しい。小説というより、散文詩に近いような印象もあるし。ムダなところを省いているせいだろうけど。

真面目に読むとしんどい。といって、笑ってすませるような話でもなし。「目玉の話」なんか、目玉→玉子→睾丸という連想で出来てる話で、快楽のために死ぬ人まで出てきて、それをまた楽しんでるっていう、まあなんというか、昔からこういうのはあったけどね。サドとか、あるいは映画ではパゾリーニとか。

そういうのを楽しめる人には楽しめる。でも今読むとなあ。やりすぎとも思えるし、ちょっと中途半端とも思えるし。ううむ、こういうのが古典の限界か。同じような小説でもっと出来のいいのが現代にはあるな。これ、といってすぐには思い浮かばないけど。


古典が新しい訳で、というのはうれしい。わくわくする。昔読もうと思って途中で挫折したあの話やこの小説が、ひょっとしたら新訳なら楽に読めるんじゃないかという期待もある。バルザックの「ペール・ゴリオ」がそうだった。面白かったなあ。やっぱり現代という時代に生きている限り、現代の言葉で書かれたものが一番なのかも。もちろん、古典そのままの味わい、古典的な「名訳」というのは、いつまでも残るものだとも思うが。


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10月17日(火)

面白いのと疲れるのと

清水義範の作品は、何かの短編集に入っていたのを読んで「面白いやんけ」と思ったのが最初。ちょっとまとまったものを読んでみようと思ったのだった。

「私は作中の人物である」と銘打ったこの本は、言葉遊びにあふれていて。いやいや、言葉遊びという範疇にはおさまらへんな。最初の表題作からして、「私はミミズである。いやミミズの死骸である」というところから始まって、「死骸なのにどうして考えることができるのだろう」という疑問をはさんで、さあ大変。小説の「約束事」がどういうものかという解説編に入っていく。なるほど、これは小説論なのか、と思って読んでいると「と、考えているミミズなのだ」ときて、あらあヤラレたあ、と思ってしまう。

結構やるなあ、と思ったけど、この表題作はまだ序の口で、「魚の名前」になると、言葉の迷宮に入り込んでしまう。まあこの辺まではまだ笑って読めるのだけれど。「文字化けの快楽」になると、真面目に読むのがアホらしくなってくる。

「とねちり」でもその続きで、なんか作品として成り立っているのかどうかわからんなあ、と思ってたら、「船が州を上へ行く」ですよ。もう題名が何を意味しているのかもわからん。まいった。

あとがきを読んでも何のことやら。というか「ひょっとしてまだ騙されているのではないか」という疑問を持って読んでしまう。どうなんでしょう、こんな本。

ところが、巻末の柳瀬尚紀の解説を読んで、合点がいった。「船が州を上へ行く」は「ふねがすをうえへいく」と読むべきで、カタカナで発音すると「フィネガンス・ウェイク」につながるのだと。なあんや。ジョイスですか。

ジョイスの作品は「若い芸術家の生涯」しか読んでないけど、なるほどね、と思ったな。あの実験精神にあふれた(というか、それしかないともいえる)作品を、日本語でなぞるとこうなるのか。これを面白いと思うか、ただ「疲れたあ〜」と思うかは、人それぞれでしょうなあ。僕は・・・ひとつふたつぐらいやとええけど。他の作者の作品と並べるとかね。まとめて読むと、ちょっとね。


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10月23日(月)

本好きの書くことは面白い

カフカの「変身」を初めて読んだのは、確か中学生になるかならないか、たぶん小学生の頃だっと思う。
当時、毎週読んでいた「少年マガジン」に、怪奇小説特集みたいなものがあって、怪奇小説の一場面を、挿絵とともに紹介していたのだ。
一夜にして「毒虫」に変身してしまう、というのはいかにも怪奇趣味だ。一緒に載っていたポーの「黒猫」の挿絵とともに、心に焼き付いた。

そういうおどろおどろしい先入観を持って、こどもの頃に読んだのだ。だから印象としては、なんとなく暗い、昔の(第二次大戦前のドイツは、当時の僕には「昔の」という印象だったのだ)ちょっと気持ち悪い話として残っていた。

で、新訳の登場である。もちろんこちらも、いろんな本を読んできている。そこであらためてこの話を読むと。
これは怪奇小説なんかではない。実に楽しい話なのだな。「楽しい」と言っては語弊があるけれど。だれも笑ってなんかいないし、毒虫に変身してしまったザムザ氏とその家族は、崩壊の危機に立たされてしまうし。

しかし、やっぱりどこかおかしみがあるのだ。それはなにより、誰もザムザ氏の変身に(変身したあとの毒虫にはぎょっとしても)驚かないのだな。大騒ぎになるはずなのに、そうはならない。なぜかザムザ氏の変身を受け入れてしまう。
当のザムザ氏も、気になるのは毒虫になってしまったことではなく、「このままでは仕事に遅れる」とか「これからの生活に困る」とかいうことなのだ。これって、おかしい。

さらに、毒虫の体になったことにだんだん慣れてきて、部屋をもぞもぞと這い回り、しまいには天井から逆さ吊りになって楽しんでたりする。想像すると、ちょっと笑ってしまう。

もちろん、ここにいろんな寓話的なことを読み取るのも可能だろう。そういうふうに読まれて来た小説でもあるし。
でも何も考えず、現代の小説として読んでも十分面白い。いや、そう読んだ方が面白い。これはコミックなのだと。そしてコミックとは、多分に寓意的なものなのだし。

これは白水社からでている「カフカ全集」の一部を、新書判にして読みやすくしたものだ。もとの全集の方も読んでみたくなって来た。「審判」とか「城」とか、今までと違う読み方が出来て、楽しいかもしれない。


児玉清さんが無類の本好きだということは、以前「徹子の部屋」で語っていた、とぶたこに教えてもらったことがあった。
海外のミステリが好きで、片っ端から読んでいったら、とうとう翻訳物は全部読み尽くしてしまった。仕方がないので、原書で読むようになったのだと。

「寝ても覚めても本の虫」は、そんな児玉清さんの初めての単行本(2001年)なのだそうだ。本にまつわる話、どうして本好きになったか、どんな風に読んでいるか、などが書いてあって、とても面白い。

例の、テレビのクイズ番組での口調を思い出す、なんてことはないのだけれど、文章がさらさらと読める。うまいなあ。こんな風に、好きな本を片っ端から読めたら楽しいだろうなあ。

ただ、後半の「わが愛しの作家たち」は、海外ミステリの紹介なのだけれど、ちょっとただの紹介になってしまってるかな。まあ雑誌での書評に加筆したものだから、仕方ないのだけれどね。
ただの紹介と書いたけど、それでも面白いんだね。もちろん自分で読んで楽しんだ本だからだろうけど。
こういうのを読んでると「ほんまにそんな面白いんか。だったら読んでみようか」という気になってしまう。ううむ。そんな気にさせてしまう文章だ。

あとがきは、これだけで、もう一つの章になってしまうくらいだ。本を捨てられない話とか、洋書の大全集を買って奥さんと気まずくなってしまった話とか。これは本の紹介よりよっぽど面白い。
図書館で借りた本でなかったら、真ん中の本の紹介は省略してでも、こういう裏話をもっと書いて欲しかった、そのぶんもったいない思いをした、と思うところだろう。


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10月30日(月)

昔の本、新しい本

光文社が文庫で出している「江戸川乱歩全集」はまさしく「全集」で、初期の怪奇小説から戦後の少年探偵団ものから、評論まですべてを文庫におさめている。オドロキだ。
以前も第1巻の「屋根裏の散歩者」は借りてきたのだが、表題作まで行き着かず、というか最初の2,3編だけを読んで返却したのだな。
今回は全部読んでしまった。

これは第1巻で、初期の短編集なのだが、それぞれの物語の後に作者自身による解題やあとがきみたいなものまで収録してあって、どういう気持ちで書いたのか、これを書く経緯はどうだったのか、そして自信の評価は、などといった興味もすべて満足させるという仕組みになっている。

普通は全集ものというと、「評論集」とか「解題集」とかが別巻みたいになっていて、それを引きつつ本編を読む、ということもあったりする。そこまででなくても、だいたい「注」と同じ扱いになって、巻末に一括して置いてある、というのが普通だろう。
それはそれでいいけれど。一つの話を読み終わって、その余韻が残っているうちに作者自身の言葉に触れられるというのはいい感じ。

さて、肝心の本編の内容だけど。まあ初期の作品群ということもあるのかな。なかなかの玉石混交ぶりである。
こう書くと「なんと偉そうな」と思われるかもしれないが、作者自身が「全くの愚作である」とか「拙作となった」とか書いているので(それも謙遜とかじゃないようだ)許してもらおう。

一応は推理小説(いや「探偵小説」というのが正しいでしょう)なのだけれど、話の筋がめちゃくちゃなものもあるし、有名な「二銭銅貨」などは「そんなことはでけへんやろう」と思ってしまうのだが(他にも同様なものはある)、それでも人気があったのは、その発想のユニークさゆえだろうなあ。今でも推理小説のモデルとして引き合いに出されるくらいは斬新なもの(だから荒唐無稽に思えたりするのだが)だったんだろうなあ。

一連の作品を読んで強く思うのは、当時の「時代」だ。
犯人をはじめとする登場人物は、皆何かとても退屈しており、その退屈を紛らわせるために殺人を犯す、退屈しのぎに殺人事件を推理する。ともかく怠惰な空気が漂っていてどうしようもない。
だいたい殺人などの事件を起こす動機も何もあったものではないし。ともかくトリック、トリック、トリックで、どうすればこういうトリックができるか、どうすればそれが解けるか、もうそれだけに関心があるようだ。

と思えば、自信を持って発表した推理小説より、ついでに書いたような怪奇小説の方が人気が高くなって、
「それ以降、怪奇小説に傾いていくことになった」
などと書いてたりする。そうかあ。世間の評判では「推理小説家」というより「怪奇小説家」だったのかなあ。

これまで飛び飛びに読んで来た全集を、ちょっと順番に読んでみるのも面白いかもなあ、と思い始めているのだ。作者の変遷みたいなものが分かるかもしれない。


「世界の果てのビートルズ」という題名は、なにか超宇宙的なイメージか、あるいは音楽を通じての交流のような話かと思わせるが、そういうのとは全く違う、スウェーデンの、作者の少年時代の話(半自伝的な)である。

スウェーデンのことで知っているのは、北の国、白夜、サウナ、福祉の国、ぐらいなものだ。
それも首都圏のストックホルムとか、その辺りの情報に過ぎない。もっと北の、北極圏のさらに北の村に住んでる人、なんて想像も出来ない。

作者はそんな村、フィンランドとの国境近くのパヤラ村に生まれた。そしてそこですごした少年時代を描いている。
といっても作者は僕とほぼ同年代。その村では世界の情報が時差をもってもたらされてくる。ビートルズもそうだった。
そして僕らと同じように、ビートルズにかぶれた若者はそのまねをしてバンドを組み、学校で発表会となる。

というような話は、しかしメインではない。それよりもそのまわりの、村中で起こるいろんなことが、それこそ次々に起こるいろんなことが、生き生きと描かれるのだ。

まあこれで、スウェーデンの田舎の生活がよく分かるとか、そんなことはない。分かるのは、世界中どこでも同じようなことをやっているのかなあ、という漠然とした同一感だ。
大人たちは酒を飲み、暴れ回り、少年たちははしゃぎまわり、空気銃を持って戦争ごっこをする。あ、そんなことはしないか。

まあよくある、「少年時代の思い出を綴りました」小説だ。ただし中身はちょっと濃い。


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