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読書日記


←前月 2日 また読む気力も生まれ

【世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド】村上春樹(新潮文庫)
【ひさしぶりの引越し】高橋みどり(メディアファクトリー)

次月→
6日 古いもの新しいもの

【江戸川乱歩全集第3巻 陰獣】江戸川乱歩(光文社文庫)
【夏の日のぶたぶた】矢崎在美(徳間デュアル文庫)

7日 静かな世界

【わたしを離さないで】カズオ・イシグロ(土屋政雄訳・早川書房)

12日 失踪ということ

【ツアー1989】中島京子(集英社)
【いのちの食べ方】森達也(理論社)

16日 古典の新訳

【ちいさな王子】サン=テグジュペリ(野崎歓訳・光文社古典新訳文庫)
【失踪者】フランツ・カフカ(池内紀訳・白水社)

25日 新訳が次々に出ているようで、とても楽しい

【冷血】トルーマン・カポーティ(佐々田雅子訳・新潮文庫)
【ふしぎなお金】赤瀬川源平(毎日新聞社)
【自分の謎】赤瀬川源平(毎日新聞社)

29日 休みに入って本を読む時間も増えるかというと、そうでもない

【海に住む少女】シュペルヴィエル(永田千奈訳・光文社古典新訳文庫)
【漫画大学】手塚治虫(角川文庫)
【もののはずみ】堀江敏幸(角川書店)


12月2日(土)

また読む気力も生まれ

まあそんなに気合いを入れて読んでどうするんだというのもあるんだけど。ともかくまた、読むのが楽しくなってきたので。

村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、文庫で上下巻。けっこうな分量である。読み通すのは正直苦労したな。
「世界の終わり」という話と「ハードボイルド・ワンダーランド」という話が同時進行的に、というか1章ずつ順番に並んでいる。読むときはそれを同時に読むので、まるで連続ドラマを2本、続けて見ているような気分だ。
そして、舞台設定も小説の性格も全く違うように見えるふたつの話が、どことなく同じキーワードで結ばれていって。さて、この結末はどういう風に捉えたらいいのだろう。

前に「アフターダーク」を読んでいたので、途中から何となく結末めいたものが、おぼろげながら想像できてしまった。その想像は当たっているようなハズレているような。でもこれは推理小説じゃないから、当たっていようがハズレていようが小説の価値としては変わらないのではないかと思うなあ。

どちらの話もSF的というか、ちょっと現実離れしているんだけれど、「ハードボイルド・ワンダーランド」の方にはやたらと固有名詞がでてくる。それにこの話の舞台は間違いなく東京。だからちょっとフィクションっぽいなあと思って読んでいると、急に現実世界に引き戻されるような(それも半ば強引に)不思議な感覚に包まれつつ読んでしまうのだ。

ずっと読んでいたら、昔読んだ安部公房の「壁」を思い出した。細かいところはもう忘れてしまったけれど、あの小説の不思議に現実的でない部分と不思議にありそうな部分というのが、ダブってしまう。そういえばこの小説のキーワードに「壁」というのがありそうな。そして二人ともカフカに影響を受けているみたいやし。


高橋みどりの「久しぶりの引越し」を図書館で何気なく手にとってみて、何となく借りてしまったのは、やっぱりちょっと心が荒んでいたというか、ホッとするようなことに出会いたい、癒されたいと思っていたのかなあ。

まあよくある(よくあるのかどうか知らないけど。時々見かける)フォトブックというのに近いかなあ。スタイリスト高橋みどりさんの、「引越し」というのはちょっとひっかけで(たしかに引越しはしてるんだけど)、そのライフスタイルをちょっと紹介するというような本。
女性の一人暮らし(だと思われる)で、どのようにステキに暮らすか。シンプルにしかも快適に。

そこには自己という物が大切なのだな。でもそれを正面きって主張されるとちょっと困ってしまう。昨今の「ロハス」みたいにね。
そこまで行かないところが気持ちのいいところ。
こういう本はもちろん女性にターゲットを絞ってるんだろうけど、僕は好きやなあ。シンプル快適を目指すおばはんとしては。


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12月6日(水)

古いもの新しいもの

全部読破しようという考えはないんだけど、「江戸川乱歩全集」は、あんまりハズレがないような気がして。前に読んだ「キネマ・キネマ・キネマ」は、期待が大きすぎたせいもあるけど、ちょっとなあ・・・やったから。

別にホラーものがキライなわけじゃないし、おどろおどろしいものも敬遠しているわけでもない。でも「キネマ・・・」に載ってたのはちょっと「それだけ」っていうものが多くてねえ。なんか「これでもかっ」という気概は買うけれど、それだけでは続けて読もうという気が失せてしまうのであるよ。

江戸川乱歩も、「陰獣」はまだしも、「踊る一寸法師」や「芋虫」は、ちょっと気持ち悪くて、子供が読むようなものではないとは思うけれど、その奥の方になにかちょっとした光明というか、なんともいえない耽美的なものもあって救われるのだ。
たぶん、乱歩の場合は、「こんなことを書いたら、きっとみんなびっくりしてくれるだろう」なんていうのはなく、ただ自分の書きたいことを書いたんだと思うなあ。だから作者の意図というか、書きたくてたまらなかった心持ちというものが何か伝わってくる。

現代ではちょっと許されないような表現があっても、読み継がれているのにはこういう背景があるからではないかなあ。

実は、真ん中の「空中紳士」は、題名からしてとてもつまらなさそうなので読んでいないのだ。それを挟んだ前半がまあまあ面白い。でも作品の出来はちょっと不揃いな印象。
それに比べると、後半に収められた「陰獣」と「芋虫」はやはり傑作と言うべきか。特に「陰獣」は、結末の曖昧さが批判されたと作者本人の解題にあるが、今読むとその曖昧さこそがこの物語の古くささを補っているともいえる。
「真実のあやうさ」を知っていたのかもなあ。


「ぶたぶた」という文字を見てしまうと、読んでみないではいられないのだ。「夏の日のぶたぶた」は、その題名どおり、夏休みでも「僕」とぶたぶたと、僕のまわりの家族、友人の話。
相変わらず「山崎ぶたぶた」が大活躍し、物語は暖かく進んでいくのである。

最初に読んだ「ぶたぶた」に比べると、主人公が中学生で、内容も「青春」しているのでちょっと違和感がある。というか、深みがないというか。
よく読むと、夫婦のいさかいとか、思春期の成長とか痛みとか、そんなことがあってとってもいい読み物なんだけど。

ううむ。僕の期待する「ぶたぶた」は、もっと危険であったり不気味であったり、でもまわりの人間が助けられる。そんな展開ばかりを望んではいけないのかなあ。
まあ面白いのは面白いんだけど。

そういえば、「キネマ・キネマ・キネマ」にも矢崎存美の作品が収められていた。一読しただけでは何のことか分からず、くらっときたなあ。感覚の鋭い人なんだろう。ちょっと、他人には及ばないような。
だからこそ、期待してしまうのだなあ。


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12月7日(木)

静かな世界

ちらっと見かけた紀伊国屋のベストセラーの一位は「わたしを離さないで」だった。先日、朝日新聞の本の宣伝ページで紹介されていたけれど、まさかベストワンになるとはおもわなんだなあ。

主人公(語り手)のキャシーは31歳の優秀な「介護人」。「提供者」の世話をするのが仕事。「提供者」の中にはキャシーも生まれ育った施設「ヘールシャム」の出身者も多い。親友のトミーとルースもそうだった。
彼らの世話をしつつ、過去の思い出を語る。という話で。

「日の名残り」を書いたカズオ・イシグロだから、今度もきっとイギリスの匂いのする静謐な小説なのだろうと思って読み始めたのだが。
確かに、独特の静かな調子で話は進むんだけど(訳がうまいなあ)、内容は語り口とは裏腹なショッキングなものだ。まあ読んでみて。

子供時代を過ごしたヘールシャム。最初のうちはそこでの生活を懐かしむような小説なのかなあ(「日の名残り」のように)と思っていたら、どうやら様子がおかしい。だいたいヘールシャムって何?
その秘密がだんだんと明らかになってくるんだけれど。それがびっくりするように明らかになるんじゃなくて、一枚一枚丁寧にベールをはがしていくように明らかになっていく。そしてその「秘密」が、語り手のキャシーにはとても驚くようなことでもなさそう。っていうところがかえって怖かったりするんだけれど。

でもこの小説の中心は、そういう怖い部分じゃなくて、幼い頃を共有した友人との思い出とか、そのつながりの暖かさとか、そういうところが前面に出て来ているような気がする。

過酷とも言える使命を持って育てられた(そして本人たちはうすうす気がついていくけれど、それに激しく抵抗することもない)主人公たちの人生。しかし読み進んでいくうちに、はたして今の自分たちとどれくらいの違いがあるんだろう、なんてことを考えてしまった。
つまり人は何のために生きているんだろう、ってことなんだけど。
ただのフィクションじゃない、深みがそこにある。だから読み終わって、なんだか不思議な気分になるのだ。イヤな意味じゃなく。


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12月12日(火)

失踪ということ

香港には今まで何回行っただろう。チムサーチョイ、チョンキンマンション、ネーザンロード、ジョーダン、セントラル(それぞれ漢字を当てるべきだろうが、思い出せない)。どれも思い出深い。
中島京子の「ツアー1989」は、香港を主な舞台にしている。というか、香港旅行が発端になっている。
ツアー参加者のひとりが行方不明になるという「迷子ツアー」。そのツアー先が1989年の香港なのだな。
迷子になった人が同じツアーにいるということで、妙な気分のままで旅を終える。それが目的なんて、面白い発想だなあ。

それは物語のホントの発端であって。それに続く物語がそれに引きずられていく感じ。
そして行方不明になった青年は、いつのまにか「吉田超人」として伝説化され・・・という結末へと流れていくのだな。

喪失感を味わいたいとか、そういう「ちょっと危ない気分を楽しみたい」というのは誰しも持っている願望なのかもしれないなあ。でも本当に危ない目に遭うと「二度と遭いたくない」と思うのだろう。ましてトラブルの当人はどう思っているのか。
なんてことを考えてしまった。読み取ろうと思えばもっと違った読み取り方ができる、そういうフレキシブルな味わいを持った小説だ。

ただねえ。ちょっと短いねえ。前半が3つの短編、後半が1つの中編から構成される連作風。構成も面白いのだけれど、前半の部分がやや食い足りない。後半もなんか種明かしをされたみたいで、ちょっとなあ。
もうちょっとひねって考えさせて・・・・なんてところがあったらよかったんだけど。香港の描写はちょっと懐かしいものがあったけどね。


森達也の本を探していたら、「いのちの食べ方」という児童向けの(たぶん)本しか図書館では見つからなかった。
森達也は元テレビプロデューサー。今もやってるのかな。オウム真理教を内側から取材したドキュメンタリーを撮るなど、社会派として知られているんだけれど、「ご臨終メディア」という本を出すなど、メディア批判も厳しいものがある。

前に「たかじんのそこまで言って委員会」に出てはったけど、素顔はごく控えめな、誠実そうなお兄さんなんですけどね。面白いことも言うし。

で、「いのちの食べ方」は食肉の話。
毎日お肉を(牛、豚、鶏)食べているけれど、そのお肉はどこからどうやってくるのか、考えたことがありますか? という問いかけから始まって、ではその実態をお話ししましょう、ということになる。
そして、魚をさばく映像はテレビで流れるのに、牛豚をさばく映像はどうして流れないのか、という話になり、臭い物には蓋をするということでいいのか、ということになっていき、部落問題にまで話が及ぶのである。

その話の中心はふたつ。ひとつは「僕たちはひどいことをしながら生きている。でもそうしなければ生きていくことができない。それを自覚することが大事」ということ。もうひとつは「知らなくてもいいと思って目をそむけずに、知ることが大事」ということ。
そのどちらもそのとおりだと思う。

書いていることに一貫性があるのが好感が持てる。ちょっと部落差別問題になると、話の飛躍があるかなあと思うことがあるけれど、本人が「僕の言うこともすべて正しいというわけじゃないかもしれない」と断っているから、まあいいか。
それにしても、これは児童向けの本じゃありませんよ。言葉も難しいし。まあ難しい言葉を使って、ひょっとしてこれを読んだ子供が「これ、どういう意味?」とか大人に聞いて、大人と子供の会話が始まる、ということまで見込んでるとしたらたいしたものだけれど。って、そんなことが起こる可能性は少ないと思うけどね。


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12月16日(土)

古典の新訳

古典文学が次々と新訳で出ている。かつて読んだ名作も訳が新しくなると印象がすっかり変わってしまう。
ということをカフカの「変身」を新訳で読んで実感していたので、新しい訳が出ているとなると、なんとかその新しい方の訳で読みたくなっている。

訳が新しくなるだけじゃなくて、題名まで新しくなっていることもある。「星の王子さま」「ちいさな王子」に、「アメリカ」「失踪者」に。
それが正しいというか、元々の題名にそっているのだなあ。

「ちいさな王子」は、最近新しい訳が次々に出ているので、まあ何が何やらという感じもしないでもないのだけれど。
前に読んだのは誰の訳だったかなあ。それに、こんどのとどれだけ違っているのだろう。ふたつを読み比べてみないとよく分からないかも。
でも装丁もきれいだし(これは大事なことだと思う)、ことさら詩的な表現にもなっていないところがいいかも。って、ほかの訳がどんなのだか分からないので、なんとも言い様がないけれど。
でも名作なんだから、どんな訳で読んでもそれなりに面白いんだけどね。

カフカの小説は若い頃(高校生?)にほとんど読んだはずなんだけど(新潮文庫でほとんど出ていた)、「アメリカ」がどんな話だったかはさっぱり記憶にない。
で、白水社の「カフカ小説全集」の第1巻が「失踪者」で、これがかつての「アメリカ」なのだそうだ。

カフカの長編小説というと、まず「城」そして「審判」とあって、「アメリカ」は3番手、どちらかというとマイナーな部類に入るんではないかなあ。
読み直してみた「失踪者」は、確かにマイナーになるべくしてなったような印象もあるなあ。

主人公はドイツからアメリカ(ニューヨーク)に渡ってきた(家を追い出されて)17歳の青年カール。言葉もままならないカールが、おろおろとニューヨークをさまよう(といっても、この物語は2日かそこらしか書かれていないのだな)という話。

「審判」などと同様、なにか理不尽に右往左往させられる、ちょっと情けない男の話なのだな。それだけといえばそれだけの話で。
そしてカフカの他の小説同様、これは未完のままに終わったようで。というか、どういう結末を考えていたのだろう。さっぱり話の本質が見えてこないまま、物語はだらだらと続く。
このだらだら感がカフカらしくていいのかもしれないなあ。そんな小説を書く人は今まで居てなかっただろうし。

カフカにとっては小説の構成とか話の流れとか、結末までのいわゆる「起承転結」なんて問題ではなかったのだろう。ともかく書きたい部分があって、それを文字にしていって、しかしそうなると自分でも話の収拾がつかなくなって、あえなく中断してしまう。そんな印象がつきまとう。出だしの、主人公がドイツを追い出される理由など、たった1行でオシマイだ。そんなことはどうでもよくて、それからの右往左往だけを考えていたのか。
それで、主人公をどうするつもりだったんだ。どうしようもなかったんだろうなあ。


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12月25日(月)

新訳が次々に出ているようで、とても楽しい

今日も仕事の帰りに大学の図書館に寄って、本を5冊借りてきた。昨日も市立図書館から8冊も借りて来ているのに。
これが「無料」(大学の方は登録料を払っているけれど)の楽しさ気楽さなのだな。今日借りてきた本はどれもハードカバーで、5冊になると結構な重さになったのだが、それもまた心地よし、と思うくらい本好きなのだなあと改めて思うのだ。

古典の新訳がここのところ次々に出ているようで、とても楽しい。「名作」と呼ばれているものでも訳の出来不出来によってわくわくしながら読めたり、読むのに苦労したりといろいろと差が出てくるものだ。特に古典はね。

カポーティの「冷血」は前に大学図書館に行ったときたまたま目について、そういえば映画「カポーティ」も見たかったけど、結局近所の映画館では上映してくれなくて見損ねてしまった、あの映画の中心になったのがこの小説だったなあ、と思いつつ、まあ読んでみようと思ったわけ。
以前からカポーティの最高傑作と呼ばれていることは知っていたのだけれど、どうも「ノンフィクション・ノベル」という呼び名に怖じ気づいて敬遠していたのだな。

そして手にとってから気がついたんだけど、これって最近の訳本なのですね。同じ新潮文庫から別の訳で出ているのがあって、てっきりそれと一緒だと思っていた。
前の訳がどんなのだったかは全然知らないんだけれど、この訳はとてもいいです。まず字が大きいし(訳と関係ないな)、紙の質もいい(これも関係ない)。
英語を日本語に直しました、という感じがあんまりしない。これがいい。自然に読み進むことができる。特に会話体が多いので、素直に人の話を聞いている感じが出ていていいなあと思った。

いいなあと思ってはいけないのか。話の筋は、ちいさな田舎町で起こった一家4人の惨殺事件。それをいろんな人の証言で組み立てていく。まるでひとつひとつのピースをちょっとずつ組み上げて、一枚の大きな絵にするように。そうジグソーパズルのように。
こんな本が書けたカポーティの能力というか執念というか、そういうものに感嘆してしまった。そして取材(おそらく膨大な聞き込みを行ったんだろう)をしているカポーティ本人が全く表に出てこない、その構成の見事さ。
確かにこれを「ノンフィクション・ノベル」と呼ぶ気持ちが分かるなあ。単なるノンフィクションじゃない。といって創作でもない。
上質の「再現映像」を見せられたような感じだ。映像が目に浮かぶ。


赤瀬川源平の「こどもの哲学・大人の絵本」というシリーズがあるのだな。その中の2冊、「ふしぎなお金」「自分の謎」を読んだ。

どちらもいわゆる「哲学本」と呼べるものなんだろう。お金について、自分について、その謎の部分を「なんでだろう?」と素朴な疑問から始めて話を掘り下げていく。そのあいまには著者自身の挿絵をはさんで。そこが「大人の絵本」ということか。
絵入りの哲学書というのはよく見かけるな。「ブッタとシッタカブッタ」なんかは面白かった。
ああそういえば、「チーズはどこへ行った」だとか「バターは誰が食べた」だとか「ミルクはいつの間に搾った」だとか(ウソ)いう本も、一時期いっぱい出ていたな。どれも「すぐに読める」というのが売りだった。そして「その割には役に立つ」ということも。

「その割に」とは失礼な言い方だな。でも「すぐに読める」というのは確かだったようだ。僕も「チーズ」はすぐに読んでしまった。実につまらなかったけれど。

この赤瀬川源平の2冊もすぐに読める。あとがきで著者自身が触れているけれど、「読まれ率」というのを考えると、
「買ったけれども読まない本より、ちゃんと読まれる方がいい」
というのも一理ある。というか、書いた人はもちろん読んで欲しいわけやからね。でもそれを調べる手だてはない。本を買った人にいちいち「最後まで読みましたか?」なんて聞いてられへんもんなあ。

それはともかく。この本は「チーズ」よりは10000倍ほどは楽しいし、考えさせられるし、面白いです。
ただ、すぐに読めてしまうので、逆にこれに1200円(定価)(+税)を払う気になるかどうか。
まあ「画家」赤瀬川源平の挿絵はあるんだけれど、それで価値がぐんと上がるわけでもないし。
でも何回も繰り返し読んで「ああそうやなあ・・・・」と思う分にはいいのかも。

そうやなあ、しょうもない長編小説を1回読むより、これを3回ぐらい読む方が楽しいかもね。だったら妥当な金額なのか。


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12月29日(金)

休みに入って本を読む時間も増えるかというと、そうでもない

昨日から冬休み。で、ゆっくり本も読めるというものだけれど、実はそんなにも読む時間は増えていないなあ。むしろテレビをだらだら見るとか、DVDを見るとか(テレビと一緒か)いう時間が長くて。
それに、仕事に行っているときは、行き帰りの電車の中で本を読むのだし、昼休みも食後に読んでいるのだけれど、家に居るとそういう時間はないのだな。
お昼ご飯を食べたあとはだらだらとテレビを見ている。やっぱりテレビか。
まあ、無理に本を読むこともないのだからいいけれどね。でもいっぱい借りてきてるからなあ。

シュペルヴィエルという人は名前も聞いたことがない。綴りを見ると「シュペルヴィーユ」とも読むのかなあと思うけれど、人の名前は綴りだけでは判断でけへんところがあるからね。いい加減なことは言わないでおこう。

「海に住む少女」はファンタジー短編集。といってもただの子供向けファンタジーではない。「死」だとか「孤独」だとかがテーマになっていて、というかお話の中心になっていて、幻想的な不思議な雰囲気を醸し出している。
シュペルヴィエルはどちらかというと「詩人」というイメージが強いらしい。そう考えると、いかにも詩的な世界ともいえそうだ。
そういう先入観なしに読む方がいいのだろうなあ。どれもとても短い話なので、たしかに詩を読んでいるような気分になるときもある。そしてその雰囲気というか、醸し出す世界を楽しむような気分になる。

教訓的なことを考えずに、ね。


「漫画大学」は風変わりな作品だ。漫画の書き方とかを講義する、その合間にオムニバス風にストーリー漫画がはさまっている。その話も、単なる付け足しではなく面白い。これだけを単独に発表してもよかったのに、それを「講義」の形で入れてしまうところが、その発想が面白いなあと思う。

そういえば手塚治虫の漫画って、案外そういう構成のものって多いよなあ。代表作の「火の鳥」にしても「ブラック・ジャック」にしても、真面目な話の合間にヒョウタンツナギが出てきたり、変なギャグが出てきたりっていう、いわば「コラージュ」的な手法。
それが実に自然に、何の違和感もなく出来るところが、天才たるゆえんなのだろうなあ。

同じく収録されている「化石島」も、同じようにいくつかの話のオムニバス。「化石島」に上陸した3人の旅行者が、それぞれ見る夢の話。SFであり西部劇であり冒険譚であり、とこれもさまざま。
そのそれぞれに遊び心もあって。ついつい引き込まれて読んでしまうのだな。

普段マンガはほとんど読まないのだけれど、こんな風に書く人はもういないんではないかなあ。
そして手塚治虫というとすぐに「鉄腕アトム」だとか「リボンの騎士」だとかのテレビアニメを思い浮かべてしまうけれど、本来の仕事というか本領を発揮しているのはやっぱり「マンガ」であって。
それはコマのカット割り一つをみてもそう思う。この本に収められた2編をみても、「これは映像では表現でけへんやろう」と思わせる個所がいっぱいであったよ。


衝動買い、とのはよくあることだ。とアッサリ書いてしまったけれど、僕はそんなに経験はない。でも衝動買いしてしまう人の気持ちは分からないでもない。
特に「一点もの」とか「掘り出し物」を見つけてしまったときなどは。

「もののはずみ」は、著者が主にパリの古物市で見つけて買ってしまったものについての思い出話のようなもの。そのひとつひとつについて写真入りで思い出が語られている。

それも単なる思い出話じゃなくて、そこに至る心情だとか、見つけたときの思いだとかが書かれていて、とてもよくできた写真エッセイになっている。
どんな物にでも物語があるものなのだなあ。ほとんどがパリでの掘り出し物(と本人は思っている)っていうところが、ちょっとだけセレブ気分でもある。

それにしても、これだけのものを家のどこに置いているのだろう。それだけが不思議だ。


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