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読書日記


←前月 8日 時代小説づいてしまった

【早春】藤沢周平(文藝春秋)
【たそがれ清兵衛】藤沢周平(新潮社)
【しゃばけ】畠中恵(新潮社)
【図書館戦争】有川浩(メディアワークス)

次月→
14日 訳にこだわっているわけではないのだけれど

【大きな森の小さな家】ローラ・インガルス・ワイルダー(足沢良子訳・草炎社)
【Carver's Dozen−レイモンド・カーヴァー傑作選−】(村上春樹訳・中公文庫)

20日 ミステリづいている?

【そして二人だけになった】森博嗣(新潮文庫)
【雲をつかむ死】アガサ・クリスティー(加島祥造訳・早川クリスティ文庫)
【長い長い殺人】宮部みゆき(光文社文庫)

29日 新書三題

【スケッチは3分】山田雅夫(光文社新書)
【いまどきの「常識」】香山リカ(岩波新書)
【悪魔のささやき】加賀乙彦(集英社新書)


1月8日(月)

時代小説づいてしまった

特にそんなつもりはなかったんだけど。なぜか最近時代小説を立て続けに読んだ。きっかけはテレビで「たそがれ清兵衛」を見たからで、この原作を読んでみたい、藤沢周平ってけっこういいかも、と単純にそう思ったからだ。

しかし最初に読んだ「早春」の表題作は、珍しい(というか唯一の)現代小説だった。
時代小説に比べるとやや劣るという評価が一般的らしいが、そんなこともないように思うなあ。そこはかとなく漂う寂寞感がなかなかいいと思うねんけど。時代小説を読みなれると、現実に近いものは受け付けなくなるのだろうか。ちょっと読者層が違うという気はするけどね。
他に収められている時代小説2編はなかなかいいなあと思った。そのほかにエッセイも収録されていて、まあ人となりも分かるようになっている。でもこれで「藤沢周平入門」というわけにはいかないようだ。

映画と同名の「たそがれ清兵衛」は、題名と「たそがれ時になると家路を急ぐ城勤めの武士」という以外に映画との共通点はないなあ。逆に映画とそっくりなのは、一緒に収められている「祝い人助八」だ。二人の娘は出てこないが、みすぼらしい身なりとシャイな性格、幼なじみの友人の妹に思いを寄せるなど、ほとんどがこの話から映画の題材をとったに違いない。
ただ題名の「祝い人」は「ほいと」と読み、乞食のことなのだそうだ。乞食のようにみすぼらしいことからついたあだ名ということになっている。さすがに映画で「ほいと」は使えなかったのだろうなあ。

で、やはりというかさすがというか、この「祝い人助六」がいちばん面白かったかな。というかねえ、この本に収められている話が、設定の違いこそあれ一つのパターンにはまっていて、こういう具合に話が進んでいくのでは、という具合に話が進んでいくのだなあ。
つまり、剣豪とかお庭番とか、そういう城内の腕利きではない、どちらかというと城内の雑用を勤めている下級武士が、いざというときに先祖伝来あるいは秘伝の腕前で、藩内の危機を救う、というもの。
そしてその藩内の危機というものが、汚職であったり癒着であったりというところが、テレビでよく見る時代劇とちょっと違うところなのだな。そこには武士の気高さとか武士道とかいうものが見えないのだ。
そういうちょっと泥臭いというか生臭いというか、そういう騒動に巻き込まれて、下級の武士がしぶしぶ手柄を立てる、といっても大した報奨がもらえるわけではない、というところが面白いのだけれど、これだけ同じように並べられると、もういいかなあと思ってしまう。

時代劇のあるパターンにはまったときの強さと面白さとオモシロなさを全部味わったような気分だ。


畠中恵の「しゃばけ」は、同じように江戸時代の江戸が舞台だけれど、こちらは妖怪どもがうようよ出てくる、ちょっとしたエンターテイメント小説になっている。

大店(薬問屋)の若だんな一太郎には、手代に化けた二人の妖怪をはじめとする妖(あやかし)がまわりに居て、何かと面倒を見てくれる。
ある夜、ひとりで出かけた一太郎は何者かに命を狙われる。その後、薬屋を狙った連続殺人が起こるが、下手人はそれぞれ別の人間だった。しかも普段は人殺しなどするようなものではない。一太郎は妖たちの力を借りて事件を解決しようとするのだが。

エンターテイメント小説なんだけど、ちょっと悲しいところもありおかしいところもありで、最後まで一気に読ませてしまう。ああ、エンターテイメント小説って、こうでなくっちゃねえ。

どうして薬屋ばかりが狙われるのか、下手人がそれぞれ違っているのはなぜか、真の犯人の目的は何か、そして一太郎の、本人も知らない秘密とは。などと、次々と謎が深まっていって、飽きることがない。
その間にはさまる会話もオモシロイ。ちょっとずれてる妖たちの会話とか。ユーモアの感覚も一級だ。


そのほか、有川浩の「図書館戦争」も面白そうやなあと思って読み始めたんだけど、半分までで挫折。
メディア良化委員会による本・雑誌の検閲に抵抗する、図書館戦闘員の戦いを描いたものなんだけど、発想は面白いのに内容は中途半端なドンパチと青春熱血ものになってしまっている。最後まで読ませるハラハラ感やドキドキ感が伝わってこない。惜しいなあ。


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1月14日(日)

訳にこだわっているわけではないのだけれど

ぶたこが村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を借りてきて、読んだことがあるかと聞かれたので、昔若い頃にも読んだし、村上春樹の新訳でも読んだよと答えたら、どう違うかと聞かれたけれど、さてドコがどう違っていたかなんて覚えていないなあ。違った印象になったのは、若い頃は舞台となっているニューヨークの地理がさっぱり分からなかったので、小説の雰囲気を十分味わったというわけではなかったようだということぐらいで。だったら訳が新しいかどうかというのは大した問題じゃないのか、といわれると荘なのかなあという気もする。
でも、訳が新しいと「読みやすくなっている」というのはあると思うなあ。昔より苦労なく読めるようになっていたら、それは良い訳だといえるんじゃないかと。

「大きな森の小さな家」は、NHKでも放送されていた「大草原の小さな家」の原作、その第1巻だ。
じつは以前にも、読もうと思って借りてきたことがあったんだけれど、なぜかちゃんと読めないまま返却したのだな。
で、今回借りてきたのは2005年の新訳。草炎社から出たもの。まあ以前と今とではアメリカの生活に対する考え方も違うから、その点でも以前と違う読み方をしているということもあるんでしょうが。ともかく面白く最後まで読めたなあ。それは訳がよかったからなのかなあ。読み比べないと分からないけれど。

ドラマの印象が強いせいで、原作もきっと教育的な話とかになってるんじゃないかと思っていたんだけれど、おもったより話は淡々と進んでいって。意外にも「たくましい開拓一家」の話なんですねえ。
ローラ以外の家族も(ドラマでは優しさが前面に出ているおかあさんも)ちょっと野性的で、なんだかウキウキするような気分にさせてくれる。
ああなんとなく、アウトドア家族の一代記を読んでいるような気にもなるんだなあ。自然と共存しているっていうか。こういう気分で読めるっていうのは、今の時代に読んでいるからということもあるんだろうなあ。

たくましく野性的に生き抜いている家族の話が続いたあとの最後のエピソード、狩りに出かけたお父さんが、一晩中かかって結局1発の銃も撃てなかったという話には、なんだかじんと来てしまったのでした。


レイモンド・カーヴァーという人の名前は、きっと村上春樹を通して知ったんだと思う。何かの短編集に入っていたんだと。思い出せないんだけれど。そしてどんな作家でどんな話だったかも思い出せない。ううむ。
「Cover's Dozen」と名付けられた短編集。小説の部分をひととおり読んでも、どうもつかみどころがないというか。物語の基本である「起承転結」の「結」がなかったり、あるいはもっと「承」しかなかったりするのだな。だから読み終わった後で「ええっ!」という声を上げて、ぶたこに怪訝な顔をされたりしたのだ。その「エエっ!」は「これで終わり?」という「エエっ!」だったのだ。

たとえば「収集」では、掃除機のセールスマンがやってきて、部屋の中をきれいに掃除していく。ただそれだけなのだ。どうです。「エエっ!」と言いたくなるでしょう?
代表作と言われている「大聖堂」でも、最後は「『まったく、これは』と私は言った。」と、唐突に終わるんですよ。どうです。普通ならその次に気の利いた言葉を一言でもはさみそうなもんじゃないですか。しかもこの本ではページの最後にこの一文が来るもんだから、ページをめくったら白紙!という状況になるので、思わず「エエっ!」と言ってしまうんですよ。

いや、読者に「エエっ!」と言わせるような小説を書きたかったんだったら、大成功をおさめたってことになるけどね。多分、そうなんでしょう。こんな小説家、ちょっとほかでは思いつかないなあ。


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1月20日(土)

ミステリづいている?

ミステリっていうのは、エンタテインメント小説の中でも面白いものだし、謎解きの面白さとかハラハラドキドキとかいったものを存分に味わえるというのもあるから、そして書き手の方もそれを第一義に(たぶん)考えて書いているので、裏切られることはあんまりないという安心感もあって、読み始めると次から次へと読んでしまうのだな。

森博嗣を読むのは3冊目(小説は2冊目)。図書館へ行くとこの人の本がずらっと並んでいるので、人気のほどが伺える。新聞などに載っているベストセラーでも常連だ。だからきっと面白いんだろう、と思って前に読んだ「猫の三角形」は、
「ミステリ好きの大学教授が、趣味の範囲で書いたもの」
という印象しかなかったなあ。まあトリックは結構練られたものだったんだけど、犯罪を犯す必然性がない。だから読み終わっても「???」しか残らないのだなあ。

今回読んだ「そして二人だけになった」も、発想は面白いし(盲目の天才科学者とその秘書。そのふたりともが入れ替わって、しかもお互いが入れ替わったことを知らない)、どんでん返しの発想も面白いと思ったんだけど・・・。
最後でまたがっくりさせられてしまった。
なんというかねえ。トリックのためのトリックなんだなあ。やっぱり「必然性」がカケラもないのだなあ。それでいいって言う人は、まあ「傑作だ」と言うんでしょうが。
序盤、中盤がとても面白かっただけに、終盤のガックリ度が激しかった。あああ。


アガサ・クリスティは、トリックもさることながら、人物の描き方が込み入っていて、そこが面白いんだけれど(誰しもが犯人になれる可能性がある)、しょっちゅうカバーの裏の人物表を確かめないと読み進められないという欠点もあるな。
でもまだましかも。昔はカバーの後ろに人物表など載ってなかったからね。

「雲をつかむ死」でも、それらしい(犯人らしい)人がいっぱい出てくるんだけれど、われらがポアロの名推理により(そして詳細な調査により)、意外な犯人が! というのはいつも同じなんだけど。そして「意外な犯人」というのも、まあたくさん読んでいると「ひょっとしてコイツかな?」というのが予想がついたりするんだけれど。
それでも話の進め方、とくにポアロの言い回しや行動、そのまわりの警部の様子などが面白くて、ミステリとしてだけじゃなくて、読み物として楽しめるのだなあ。だから何冊も読めてしまうのだろう。
あ、そこが森博嗣と違うところか。


何か読みたくなって、でも適当なものが思い浮かばないときは、宮部みゆきを読めばハズレはないと信じている。いろんなジャンルの本を書いているんだけれど、どの物語にも作者の暖かいものの見方というのが感じられて、面白くてしかも心に残る、そんな話を書いてくれるのだ。

「長い長い殺人」も同様。これは語り手が「財布」という、異色の連作短編集。短編集なんだけど、それがひとつにまとまって一大長編になっている。
こういう作品の魅力を、さてドコから書いていったらいいんだろう。
まず語り手が「財布」っていうところが意表を突いている。こんな作品(しかも10編それぞれが違う「語り手」になっている)、いまだかつて読んだことがないなあ。
さらにそれぞれの話が、ひとつひとつが独立した味わいを持ちながら繋がっている、そこに破綻のないのがすばらしい。
さらにさらに、最後の方まで読んでいくと、犯人と思われていた人間は・・・・というどんでん返しもあって、もう「参りましたぁ!」と言うほかはない。
この人、一体ドコからこんな発想が出てくるんだろう。最初からこの結末を思って書き始めていたのかしらん。普通に考えたら破綻しそうな結末なのに、そうなっていないのは書き方が上手だからとかがあるんだろうけれど、そういう技巧の達者なところを感じさせないのがさらに見事。


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1月29日(月)

新書三題

評論家の宮崎哲哉氏は1日に3〜4冊の新書を読むそうだ(半分は仕事なんだろうけれど)が、最近の新書は「入門書の手引きのいりぐち」ぐらいになってしまっているそうだ。
つまり、それを読んだだけでは浅薄な知識しか得られない、それ以上に「手軽で分かりやすい」ものでないと売れないのだろう。
現代人は忙しい。忙しいから手っ取り早く役に立つ情報を仕入れたい。しかし時間はかけたくない。ということで新書。これだと「素人にも」分かりやすく書いてあるに違いない。
実際読んでみると、すらすらと軽く読める。内容も簡単だ。
しかしそこが落とし穴なんだなあ。すらすらと読めるということはそれだけその内容が頭に入りやすい、というよりも「知らないうちに納得させられる」ということだってあるのだな。
まあそう堅いことは言わずに読むのもいいのだろうけれどね。

とかなんとか言いながら、「スケッチは3分」を読んだら、なんだかすぐにでも簡単なスケッチが出来そうな気がしている僕は、そういう「与(くみ)しやすい読者」なんだろうなあ。
題名どおり、3分間でできるスケッチの方法を、なんとなくではなくきっちりとした論拠をもって、しかも実践的に書いてくれているので、このとおりに練習すればスケッチがうまくなるのかもなあ、と思った。そう思ってちょっと描いてみたりして。で、意外に出来がいいのに自分で感心したりしてる。ほんま乗りやすい性格やなあと自分でも思う。

しかし、こういう入門書は好きやなあ。よくある「思ったとおりに描く」とかじゃなくて、実際的なテクニックを教えてくれるもの。感覚じゃなくてね。
この本の目的とするテクニックは、芸術的にどうこうじゃなくて、たとえば仕事上のプレゼンで生かせたり、旅行のスケッチをしたりとか、そういうことに特化しているようだ。それだけでも生かせたら、いいなあと思ったな。


香山リカっていうのは、どういう人か実はよく分かっていないのだ。精神科医で大学の先生。そしてコメンテーター。それくらいかなあ。
「いまどきの「常識」」は、日頃「常識」と言われている事柄に対して、違った見方をしたらおかしいこともあるよ、と教えてくれていて。
僕のように、最近世間の常識からハズレているのかなあと思い出している人間にとってはとても慰めになる本だった。

本当にどうも最近、自分は社会の中でマイノリティになっていってるんじゃないか(それもどんどんマイノリティの道を進んでいるんじゃないか)と思っていたので、そうじゃないと分かっただけでもホッとした。
でも、よく考えてみたら、社会の中でマイノリティでもべつにかめへんやんとも思うのだな。よのなか、多数派だけでは生きていけないのであるよ。これからは堂々とマイノリティとして生きていこう。


全然意識していなかったけど、加賀乙彦も精神科医だったのだな。僕は作家としてしか知らなかった(といって作品を読んだこともないのだが)。
「悪魔のささやき」とは、ちょっと物騒な題名だけれど、人間誰しも「悪魔のささやき」を聞くことがある。それはどんな場面か、ということを、思いつくままに書いているみたいだ。紙に書かれたものではなく、しゃべった内容をまとめたものらしい。

しゃべったことをまとめたからか、話が一貫しているようでそうでなかったりするのだな。突然、オウム真理教の麻原章晃の話になったりね。
でも基本的には、誰しも悪魔のささやきを聞くときがあるということで、それに対していかに気構えを持っているべきか、ということの大切さがかたられているのだな。
まあ言うは易く行うは難し、なんだけど。


何冊か新書を読んで思うことは、これはどこかNHK教育テレビの1時間番組を見ているような気分になるということやね。専門家がそれぞれの主張を述べ、研究成果などを話してくれる。
それをいかに自分の知識として蓄えるか。蓄えなくても、どういう刺激を受けるかってことやね。
そうそう、あまり身構えずに「刺激を受ける」程度でもいいのかも。そう思って読むと、それぞれの新書はとても楽しい。


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