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読書日記


←前月 14日 久しぶりに書いてます

【マチルダは小さな大天才】ロアルド・ダール(宮下嶺夫訳・評論社)
【ナルニア国物語 魔術師のおい】C・S・ルイス(瀬田貞二訳・岩波書店)

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20日 三度目の挑戦

【ダロウェイ夫人】ヴァージニア・ウルフ(富田彬訳・角川文庫)

23日 おもしろうて、ややためになり

【ツチヤ学部長の弁明】土屋賢二(講談社文庫)

26日 時々読みたくなる古典

【雨月物語−改訂版・現代語訳付】上田秋成(鵜月洋訳注)

27日 先入観を持って読む

【恐るべき子供たち】ジャン・コクトー(中条省平、中条志穂訳・光文社古典新訳文庫)

29日 曖昧な記憶と思いこみと

【わたしたちが孤児だったころ】カズオ・イシグロ(入江真佐子訳・早川書房)
【プークが丘の妖精パック】キプリング(金原瑞人、三辺律子訳・光文社古典新訳文庫)


3月14日(水)

久しぶりに書いてます

全然書いてなかったなあ。本の話。読んでる本はいっぱいあるのに。なんでか。本について書くより、新しい本を読みたくなるのだな。それで読んでるうちに時間が経って、ああ本について書く時間がない、とこうなるわけで。
というのは言い訳か。誰に対しての?

誰かに頼まれてるわけでもなく、原稿料をもらっているわけでもなく、それどころか時間だけがとられる状態なのだけれど。
それでもこのページを書こうと思うのは、前にこの本を読んだとき、自分はどんな感想を持ったのか、それがどうも最近どんどん、記憶が怪しくなってきてるのがひとつの理由。
前にどんな本を読んだのかさえ忘れてたりするしな。
つまり自分の備忘録なのだ。それを忘れると「忘」しかなくなるのだねえ。どんどん忘れていく。あららら。

そうこうしているうちにもう月半ば。あっという間やね。
このまま何も書かないまま、月が終わるのかと思ったけど、ちょっとでも時間があったら、やっぱり忘れないように書いとこうと、思い直してこうして書いているのです。

「マチルダは小さな大天才」を読んだのはもう半月以上前ということになる。いやあ、面白かったよ。ロアルド・ダールの話は、どこか皮肉っぽくて、ちょっと「やりすぎ」と思うときもあるねんけど(「大エレベーター」はそんな感じ。ちょっと後味がよろしくない。といって、よくない本というわけじゃないけど)、この「マチルダ」はとっても面白い。

ろくでもない両親の元に生まれたマチルダ。しかしたくさんの本を読むことで生き方を覚えていく。いやいや、それよりなにより、計算も早いし文字も(たくさん本を読んでるからあたりまえだけど)学校の同級生よりよく読める。でもそれを「特別なこと」とは思っていない。
そしてマチルダの通う学校には、横暴を絵に描いたような校長が君臨している。生徒の話には全く耳を貸さない。ともかく厳しくしつけて、犬猫のように従順にさせればいいのだと思ってる。
さて、そんな校長とマチルダ(と他の生徒たちと担任の先生)との戦いが始まって。

あほらしいとか「そんなあほな」(あほばっかりやなあ。語彙の無さよ)という話ではあるんやけど、痛快。マチルダが特殊な能力を持っている、というのがちょっと、もうちょっとひねりがあったらええのにとは思うけど。それは高望みしすぎか。


「ナルニア国物語」の映画は、どうなったんかなあ。「ライオンと魔女」は面白かったよ。わしは「指輪物語」より面白かったけどなあ。わかりやすいってこともあるけど。すぐにでも続編が撮影されるのかと思ってたけど、そんな話はとんと聞こえてけえへん。難しいのかなあ。

「魔術師のおい」は、発表されたのは後のほうやけど、話の内容は一番最初、というちょっとややこしいことになってる。この話は「ナルニア国」がどうやってできたかという話やね。ライオンのアスランがナルニア国を作る。でもそこに人間(アダムの子孫)がいたことから(というのは直接の問題じゃないけれど)、ナルニア国に対する悪も生まれてしまう。

ええと、途中までなんかだらだらと、男の子と女の子の冒険が続いて(冒険がだらだらと続くというのもおかしいけれど)、なんか、どこから「ナルニア国」になるんやろう、と思ってたら、いきなりアスランが現れるのだな。そして「ナルニア国」が作られる。ううむ。
まあ「おお! こうやってできあがったのか!」という感動はそこにはあるンやけどね。それって、映画を見てたからっていうのはあるけど。
つまり、やっぱりこれは「ライオンと魔女」から順に読み進めてきて、ここに来たらもっと感動するんやろなあという気はする。なんぼ一番最初の「ナルニア国」の国造りの話でもね。

しかし、こういうシリーズものの、しかも後半の作品にありがちな、「つじつま合わせ」みたいな場面はなくて、「最高!」とは言えないまでも、面白いファンタジーになってるのは確か。だからシリーズとして親しまれてるんやろうけどね。


というわけで、ようやくちょっと書き始めることができたであるよ。まだまだ本棚にはいっぱい借りてきた本があって、パソコンに向かうのもええけど、本の背表紙を見ると、手にとってページを開きたくなるのだな。
でもまあ、読んだ尻から、でなくてもいいから、やっぱりこうやって書いておくとあとあと役に立つかも。
それに、書きながら思ったけど、書いてるうちに読んだ内容をちょっとずつ思い出して、また楽しい気分になるのだな。そうそう、そういう楽しみ方もあったなあ。忘れてたけど。


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3月20日(火)

三度目の挑戦

ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を借りたのは3回目だった。過去2回、借りたけど読まれへんかった。最後までは。
三度目の正直で、なんとか最後まで読んでんけど。いやあなんというか、読みにくい話であることは確か。これが最高傑作なのか。ううむ。考えてしまうなあ。

クラリッサ・ダロウェイがパーティーを開く、その朝からパーティーまでの一日。その間に起こる出来事。といっても、たいしたことが起こるわけではなく、だいたいは登場人物のモノローグがつづられるのだな。夫、昔の恋人、かつて好意を抱いていた女性、どの人もどの人も、まあなんと脈絡もなくいろんな物思いにふけるものだ。いや、だいたいのひとはちょっとした時間に、自分の過去の出来事思い出したり、「あのときああしていれば」とか考えて、そのあとを想像したり、そういうことを繰り返して時間をつぶしているものかもしれないけれど。
でもそれはよくあることとして、あるいは大した興味もわかないもの、誰にでも起こっては消えていくもので、そういう時間(物思いにふけった時間)を過ごしたことすら忘れてしまっていたりするのだな。
ところが、ヴァージニア・ウルフは、それらすべてをだらだらとした文章で文字にしていったのだ。
おかげでこちらは、本人も気づいているかどうかも分からない話につきあわされることになる。それが興味のある話やったらええけど、どおってこともない話やったら、そらもう退屈な時間を過ごすことになるのだなあ。

退屈な時間を過ごす! これこそこの小説の楽しみ方の一つなのかも。

いや、急に思い立ったことを書いてしまった。
もう一つ大事なこと。この話はダロウェイ夫人がパーティーを開くことと、戦争から帰ってきて精神的にダメージを受けているセプティマスという人物のはなしとか、なぜか並行して書かれているのだ。なんで? この人はダロウェイ夫人の、いったいなんなのだ?
という疑問がずっと解けないまま(二人の接点は、パーティー用の花を買いに行ったクラリッサが公園で休んでいるセプティマスをちょっと見かける、という程度だ)、話は進んでいき(というより、時間が経っていき)、そしてセプティマスは自ら命を絶ち、そのうわさ話をクラリッサはパーティー会場で聞く。
ただそれだけのことなんやけど。なにか不思議なつながりを感じさせるんやなあ。不思議。

実はこの小説を読んでみようと思ったのは、映画の「めぐり逢う時間たち」を見たからなのだ。あの映画の中心になっている話が「ダロウェイ夫人」だった。
そういう先入観が働いてるからやろう。クラリッサ・ダロウェイをついつい作者に(映画のニコール・キッドマンに)重ねて読んでしまっていた。そしてあの映画の不思議な感覚が見事によみがえって(特に終盤になって)、この物語の不思議さを改めて感じたのだ。まるで関係のない人間同士のつながり。分かり合えるようで分かり合えずそれでも分かり合おうとするのだけれど結局はやっぱり違う人間同士でしかしまた共通の感覚を持つことができそうな気がして・・・・・というのがどんどんつながっていくような気がする。

このだらだら感と、人の心の奥底までくみ出そうとする文体を楽しめるようやったら、面白いと思えるのかも。

ああそうそう、「文体」で思い出したけど。この本(角川文庫)は2003年に出版されてるンやけど、訳は1960年だかに訳されたままなのだと。それはちょっとねえ。いかにも「昔の訳」というのが所々に見かけられたよ。初っぱなに「フランス風の窓」なんていうのがあったしなあ。
せっかくやから、新しい訳を出してほしいところなんやけど。やっぱり難しいのか。


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3月23日(金)

おもしろうて、やがてためになり

今日、天満橋のジュンク堂で時間をつぶしていたら、「ダロウェイ夫人」のいろんな訳が出ているのを見つけた。あんまり調べずに書くもんではないな。
1998年に丹治愛というひとが訳したのが、どうやら良さそうやな。機会があったら読んでみよう。

土屋賢二氏はお茶の水女子大の学部長。どこの学部だったか。哲学だから文学部か。どんな学部があるのか詳しくは知らないので、よけいに記憶に残っていないのだが。
「ツチヤ学部長の弁明」は、土屋氏が学部長になった、そのときの挨拶やら、そのほかのエッセイを集めたもの。
いつもながら(といっても、読むのは2冊目やな)自虐的なジョーク満載で笑わせられ、しかしさすがに哲学者、ものの考え方を教えてくれてもいるのだな。

それぞれのエッセイが、時期は同じだけれど、発表されたところがバラバラなので、ちょっと散漫な印象も受けるけれど、土屋教授の書き方、身の処し方、表現の仕方は一貫しているので、読んでて違和感なんかは感じひん。

ただ、同じネタが何度も出てくるので、ちょっと飽きてくるところもあるけどね。これがもう、はまってしまって身にしみてしまって、次から次へと読みたくなる、ということもあるンやろうけどね。かくいうわたくしは、ちょっとはまってます。


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3月26日(月)

時々読みたくなる古典

「雨月物語」といえば怪談集である。上田秋成がどんな人やったんかということはほとんど知らんのだが(ひょっとしてわかってないのか。昔の人やからなあ)、この話はなかなか面白い。
現代語訳ということで、ところどころ違和感のある部分もある。一番大きいのは度量衡。
「10メートルほど先に」とかいうのが出てくるとやっぱりしらけてしまう。現代語訳にもほどがあるやろうと思うなあ。

それはさておき。
ときどきこういう「古典もの」が無性に読みたくなるときがあるねんなあ。ホンマの古典もの。
教科書に載ってて、題名とかは知ってるけど(試験にも出てくるし)、でも実際の中身はよお知らん。ほんまに「名作」なのかどうなのか。それを確かめたいという気持ちもあって。
実際自分の目で確かめてみんと気がスマンというのもあるしな。

で、この「雨月物語」ですが。まあ他の古典ものもそうなんやけど、面白いには面白いけど、話そのものはひねったところとかもなく、まあ普通の話なんやなあ。
ここから派生して、あるいは発展させていろんな話ができあがっていった(あるいは反対に、いろんな民話などからこの話にまとまっていったのかもしれへんけど、それは昔の話やから、やっぱり今の時代に読むとすると、ここが出発、と考えていいのでは)と思うと、ちょっと納得できるというか。まあこんなものかなと満足できる。

で、誰かにこの本を薦めるか、というと難しいなあ。世の中にはいっぱい本があふれているし、この本より面白い本はいっぱいあるし。
この本の内容を「本歌取り」したような話もいっぱいあるにはあるけれど、もとの話を十分知っていないとあかんかというと、そんなこともないと思うなあ。ちょっとした話の内容なら、原文をしっかり読むこともいらんと思うし。ちょっとした解説書で十分なような気がするなあ。そっちの方が分かりやすかったりして。

そして、先にも書いたけど、この話を出発点として発展してきた怪談ものは、やっぱりあとの時代のものの方が面白いというか、今読むものとしてはいいんやないかと思うのだな。なにも無理して昔の話をあたることもない。
とはいいつつ、ちょっとだけ読んだ元の文(校注付)は、やっぱり味わいはあるんだけど。読み通せない。難しいからね。英語より難しかったりして。


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3月27日(火)

先入観を持って読む

そういう読み方はよくないのだろうか。先入観を持って読むというのは。でも多かれ少なかれ、何かの期待を持って読むということも含めて、ある程度の先入観はもって当然とも言えるよなあ。と自己弁護を先にしておこう。

ジャン・コクトーといえば、稀代の表現者。ということだけは知ってる。作家、詩人、映画監督、画家・・・。ああそいえば「美女と野獣」を見たなあ。テレビで。あれはとてもきれいなきれいな、おかげでそのほかのことについては(筋がちょっとおかしいような、とか)全く気にかからないくらいにきれいな映画やったなあ。
実際に映画を見る前、それも何年も前に、淀川長治さんがラジオであらすじや見どころを解説してはるのを聞いていて、きっときれいな映画なんだろうと思って、でもあんな映画が映画館にかかるわけもなく(かかっても見に行くかどうか)、テレビでも深夜に放送してたのを録画して見たんだったか。

のちにディズニーがアニメ化したけれど、あれは5分ほどみただけでヘドが出そうになって見なかったな。あれがアカデミー賞にノミネートされたなんて、アカデミーの質も落ちたもんやと思ったもんやった。

ジャン・コクトーの映画では、白黒の画面にいかにも似合うという白塗りの俳優(ジャン・マレー)の美しさが際だってたなあ。ちょっと耽美的。というか、すこぶる耽美的。野獣の館の、手の形をした燭台が、人の動きに合わせて光を照らすところなども。ちょっと怪奇趣味になりそうなんだけどとてもきれいやったなあ。

などとコクトーの印象を深めていったところで「恐るべき子供たち」を読んだのだ。コクトーの代表作、なんだろうなあ。

題名どおり、不良な少年少女のお話。最初は少年同士の雪合戦に始まって。そこに現れるみんなのあこがれ不良少年ダルデュロス。おお、これが主役か。やっぱり耽美趣味なんやなあ、と思ってたら、これが主役からはずれてしまう。あらら。
そしてダルデュロスの雪玉を胸に当てて、病床に伏してしまう少年ポールとその姉エリザベートとの二人の、おちゃら気のような仲のよいような自堕落のような生活。それに巻き込まれる(というより、自分から楽しみに入っていく)語り手ともいえるジェラール。この3人のだらだらとした生活。これが主役なのか。
やがて弟ポールが他の女性に惹かれるのをみて、嫉妬したエリザベートは弟と女性をおとしめていく。そして悲劇的な最後。

「恐るべき子供たち」という題名が何を意味するのかはよおわからんのですが。子供の精神の恐ろしさを言ってるのかなあ。でもそれにあこがれているような書き方でもある。
間に挟まった挿絵がすばらしい。映像を思い浮かべながら書いたのかも。どこまでも表現することに一生懸命やったということか。というか、表現することがこの人の生き甲斐やったのかなあ。解説を読むと、この小説は阿片中毒からの治療中に書いたらしいし。


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3月29日(木)

曖昧な記憶と思いこみ

カズオ・イシグロの小説はホンマに面白いのである。「わたしたちが孤児だったころ」は分量としてはそれまで読んだ「日の名残り」や「私を離さないで」よりもやや分厚い。しかし最後まで読ませるものがある。
それは次々に出される「なぞなぞ」のせいでもあるんやろなあ。とつぜん、
「彼が○○のような行動に出るとは思わなかった」
などというのが出てきて、えっ? そんな行動を彼がとったのか、それはなぜ? と、本文の謎解きを期待してしまう。だから、その言葉の解決を追い求めて読み進んでしまう、という手法がもうはまってしまっているのだなあ。
ただ、何度も同じ手法に出てこられると「ああ、またか」という気にもなってくる。まあこれがカズオ・イシグロの魅力というか、特徴でもあるのだけれど。

そして、書評などを読むと、これは一応「推理小説」の体裁をとっているらしいのである。確かに主人公は「探偵」であり(子供のころからあこがれていて、そして夢が叶い「有名な」探偵になりおおせている)、戦争中の(といっていいのだろう)上海にわたって、子供のころに行方不明になった両親を捜すという、まあ冒険のようなものもするのだけれど。
この主人公クリストファーが語り手となっているところがミソなのだな。つまりはすべてはこのクリストファーの目を通した世界でしかない。「有名な探偵」になったと言うけれど、それはどこまで本当なのか。世界の対立を収集するために、少年時代を過ごした上海に行く、それも大勢の期待を担って、ということになっているけれど、本当にみんながクリストファーに期待していたのか。そんなことを考え出すと、物語そのものが妙な具合にゆがんでいくのだ。
そこがまた面白いのだ。そのあたり、「日の名残り」に近いものもある。

クリストファーの父親は、上海で(どうやら)阿片の輸入に絡む仕事をしていて、それで財を成している。美しい母親はそんな父の仕事を疎んじているようで、阿片中毒から中国を救う運動を進めているらしい。
そんなある日、父親が失踪する。やがて母も姿を消す。クリストファーはイギリスに連れ戻されるが、成長して探偵になり、上海に戻って両親を捜し出そうとする。果たして両親は本当に誘拐されたのか?

いろんな謎が絡み合って、やがて一つの解決というか、結末がやってくるのだけれど。どこか平安なような、そうでないような。居心地の悪さのようなものも残る。他の作品とはちょっと違ったような。でも面白いので、やっぱり最後まで読んでしまうのだな。

幼いころの記憶とか思いこみとかは誰でも持ってるものだけど、それをここまで執着して描いているのには感心するなあ。人間誰しも「あのとき、ああしておけば」と思うものだけれど、それを解決しようとする主人公の執着心にはちょっと引いてしまうところもある。だいたい、苦しい仕事から解放されるという、そのときになって、10何年も前の両親の情報にすがりつくなんていう場面は、どうも歯がみしてしまう。そのあたり、主人公には共感できないのだけれど。でも主人公に共感できるかどうかと物語を楽しめるかどうかというのはあんまり関係がないから、いいんだけどね。

訳者あとがきで書いてるけれど、元の文は時制の表記が難しくて、日本語にするのに苦労したらしい。そうかあ。一人の人間が記憶をたどりつつ書いていくというスタイルをとっているために、現在の思いなのかその当時の思いなのかが、英語ほど一目瞭然というわけにはいかんのだろうなあ。でも、一気に読ませる訳であるよ。


先週、市立図書館で何気なく借りた「プークが丘の妖精パック」。キプリング作の、原作の発表から100年後にようやく日本初訳されたのだと。金原瑞人訳のファンタジーもの、ということで期待したんやけど(古典新訳文庫やし)、どうも最後まで読めそうにない。
ただのファンタジーかと思ったら、ちょっと騎士道話っぽいところがあってね。土地の歴史とか「古きイングランド」なんていうのが出てくるともうダメ。拒否反応を起こしてしまうのだ。

ファンタジーの中でも時々あるんやなあ。歴史大河もの。それほど壮大でなくても、英雄ものとか騎士道ものとか。まあそういう精神がイギリスに根付いているからということもあるのかなあ。
代表的なのが「指輪物語」だろうけど。多くの人がファンタジーの最高傑作にあげるけど、僕はどうも、勘弁ねがいたいというところ。細かい人名を追っていくのも面倒になる。そしてそれぞれがどこそこの王になったとか、王子であったとか、王になる運命にあるとか。その上「命をかけて守る」とかなんとか、そういう文句を見るのもどうも気分が落ち着かないのだなあ。

で、話が飛んだけど、「妖精パック」も妖精の話かと思って読み始めたら、その土地に昔生きていた騎士が出てきて(もちろん亡霊)、英雄譚を披露する、というのがもうダメなのです。説教くさく、自慢話臭くて楽しくない。楽しくないファンタジーなんて、ねえ。


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