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読書日記


←前月 4日 書評って

【小説の読み書き】佐藤正午(岩波新書)
【打ちのめされるようなすごい本】米原万里(文藝春秋)

次月→
6日 成長する(?)物語

【ハリー・ポッターと謎のプリンス】J.K.ローリング(松岡祐子訳・静山社)

8日 ノスタルジアだけでなく

【巨人の星1】梶原一騎・川崎のぼる(講談社)

9日 不思議な妙なそして心に残るような

【偶然の音楽】ポール・オースター(柴田元幸訳・新潮文庫)
【淋しいおさかな】別役実(PHP文庫)

15日 軽いけど面白くて考えさせられて

【ボーイズ・レポート−同居人はハンサム7人組】ケイト・ブライアン(露久保由美子訳・理論社)
【イン・ザ・プール】奥田英朗(文春文庫)

23日 大まじめに

【パンツが見える。−羞恥心の現代史】井上章一(朝日新聞社)

25日 知らなかった有名な話の発端

【アラビアン・ナイト(1)】前嶋信次訳(平凡社・東洋文庫)

28日 不条理ということ

【審判】フランツ・カフカ(池内紀訳・白水社)

29日 不思議なはなし再び

【アルヴァとイルヴァ】エドワード・ケアリー(古屋美登里訳・文藝春秋社)


4月4日(水)

書評って

書評っていうのは難しいなあ。こうやって好き勝手なことを書いてるだけやったらええけど。それでも、自分の感じたこととかを書くのは難しい。まあなんだってどんなときだって自分の感じたことを書くっていうのは難しいねんけど。
書評となると、それを読んだ人がまたさらにその本を「読みたい」(あるいは「読みたくない!」)と思わせるものが必要で、なんとなくさらっと紹介するだけやったら、本の帯に書いてある宣伝文句と変わらない(あるいは短く的確にまとまっているから、帯の方がよかったりする)。
「書評を読もう」とするときはもちろん「本の帯」以上の情報がほしいから読むわけで、あるいはその書評を書いた人が信頼できる(人間的にではなくても、感覚的に自分と同一だという安心感)人だったら、これはもうその人が「いい!」といえばきっといい、「だめ!」と言えばそれは自分にとっても役立たずの時間つぶしになるやろうという、そういう基準にはなる。

ひとくちに書評といっても、いろんなスタイルがあるもんだ。【小説の読み書き】【打ちのめされるようなすごい本】は全くタイプが違う。まあ前者を「書評」のうちに入れるのは間違いなのかもしれんけど。
それに【打ちのめされるようなすごい本】はまだ読んでる途中。でもハードカバー500pを越えるこの本は、どうも図書館の返却日までに読み切る自信がなくなってきた。なので一緒くたに書くことにしたんやけどね。

【小説の読み書き】は、古今の「名作」と呼ばれる本を俎上にあげて、そのスタイルがどう新しいのか、またはどう受け入れられるか(あるいは受け入れられないか)を解説したもの。ううむ。解説という言い方もおかしいかなあ。
もうだいぶ前に読み終わって手元にもないので、読んだときの印象を思い出しつつ書かないと仕方がないんやけど。まあそういう感想の方が実は的を得てたりするかもしれん(得てないかもしれん。どっちでもええけど)。

初っぱなが川端康成の「雪国」で、これが何が面白いか、最初はよく分からなかったらしい。うれしいなあ。こういう表現。誰も彼もが「名作だ」「名著だ」「ノーベル賞作家だ」と持ち上げるの。ぼくも読んだことがあるんやけど、ぼくの印象も「?」やった。
冬になって温泉につかって、宿の女中といちゃつくというだけの話だ。それがいいのか。まあ、時代的によかったんやろう。
なんてことを、ほかの作品についても書いている。
そして、この著者がいちばん気にかけていること、それは表現のスタイルだ。
「日本語として、ちょっとどうか」と思うフレーズを引用して、しかしこれが新しいのだ、こういう試みを昔から作家という人たちはやっていたのだ、と明らかにしていく。

普通、古典作品の紹介というと、人物の生い立ちとか経歴とか受賞歴とか、父親が誰だ娘が誰だなんてことに、あるいは「この人の作風は××派といって」なんていう教科書的な紹介が多いのだけれど、この人の「その作品」についての分析はちょっと違っていて面白い。
こういう書評(書評じゃないかも)を読むと、一度読んだ作品でも、もう一回読み返してみよかなという気になる。


で、【打ちのめされるようなすごい本】なんやけど。図書館で見たとき、あまりにもごつい本なので、借りるのに躊躇したんやけど、結局借りてしまった。
米原万里が死ぬ直前まで雑誌週刊文春に連載していた書評を一挙に収めたものが中心。それだけでも十分やのに、そのうえに1996年からいろんな雑誌に書いていた書評をすべて収録するという、まさに「米原万里:書評全一冊」である。

本の紹介の仕方は、前出の佐藤正午とは全く違っている。そのときそのときの自分の状況、心情なんかも絡めて書かれてあって、「読書日記」というのはこういうものかなあという思いで読んでいる。
死の寸前、癌に冒されていることがわかって、癌に関連する本を片っ端から読んでいく。それぞれを自ら検証する。ここだけでも十分な内容を持ったノンフィクションなのだが、あくまでも「読書日記」で、「書評」であるところが(こんな言い方をするのはどうかと思うけど)おもしろいなあ。

それにしてもこの膨大な読書量には参ってしまう。「打ちのめされる」のは読み手の方やなあ。とにかく読むのが早いのが自慢(やったんやろう)で、300ページを1時間で読み切ったとか、一日に7冊とかいう話も出てくる。へえっ! 7日で1冊とかいう時もあるのに。驚き。それで十分読む気にさせる書評を書くねんからますます驚き。

それにしても。「オリガ・モリソヴナの反語法」で、誰も書かなかったスターリン時代のソ連の暗部を書くかと思ったら、思わず吹き出しそうになるエッセイを書き、そして自らをさらけ出すような書評も書く。ほんまにすごい人やったんやなあ。


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4月6日(金)

成長する(?)物語

J.K.ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズは、この夏にいよいよ最終巻というか完結編となる第7巻がでるのだな。映画化も早くも決まっているんだろう。第1作から主演しているラドクリフ君が最終作まで主役をつとめることになったらしい。大変やろなあ。それに先がけて、というわけやろうか、この前テレビで「アズガバンの囚人」を放送してたな。ちょっとだけ見たんやけど、ラドクリフ君のアフレコが、相変わらず子供の声なのにちょっとなあ、と思ってしまった。もう体も大きくなってるし、たぶんこの作品あたりから声変わりも始まってるんやなかったか。だいたい日本人よりも声が低かったりするからなあ。
などという見方をしている限り、作品を楽しむということはできそうにないな。

で、原作の方やけど、1巻から順番に読んできて、5巻目の「不死鳥の騎士団」まで読んでしまったからには、最後まで読まないと気がすまないのである。
しかし、なにしろ人気の高い本やから、図書館でもいつでも貸し出し中で、なかなか読む機会が巡ってこなくて、ようやく手に取った、読めたのだ。

魔法学校「ホグワーツ」に入学し、その7年間での魔法の修行、そして偉大な魔法使いへ・・・なんていう、天才魔法使い(あるいは魔法使いのスポ根もの)かと思わせたのは第1巻の途中まで。どうやら主人公のハリーには、とてつもない秘密があるらしい。何かと意地悪をする(えこひいきをする)教授や、何かと世話をやいてくれる魔法使いや校長先生や、何かと相談に乗ってくれる友達や、などという学園ドラマが、7年間続くのかなあと思ったのも第4巻まで。
第5巻の「不死鳥の騎士団」ではついに宿敵ヴォルデモードが復活。ヴォルデモードの率いる「死喰い人」たちと、正義の魔法使いたち(?)の抗争の様相が(変な言い方になってしまった)が全面にでてきてしまった。

これはなんということなんやろう。
最初はなあ、普通の人間で、おじさんおばさんに虐げられて育ったかわいそうな男の子が、実は魔法使いで、しかも魔法界をしょって立つような魔法使いになるかもしれないという運命を背負っているっていう、その意外性と、まあよくある「みにくいアヒルの子」的な童話的要素を楽しんでたんやけど、巻が進むにつれて話はどんどん血なまぐさい抗争に移ってきているように思うなあ。

それをゲーム的に楽しめたらええねんやろうけど。ちょっとやりすぎではないですか? という気もしてくる。ううむ、難しいところ。

物語の中心は相変わらず魔法学校で起こることなんやけど、魔法学校の授業も、第1巻を読んだときは「ほほおっ」と楽しめたけど、もうだんだんマンネリ化してしまって、少々の不思議な授業では驚かなくなってしまってる。
それに、今までの話に比べると、ちょっとバランスが悪いような。どうも最終章に向かっての「種まき」のような印象も受けてしまうなあ。題名の「謎のプリンス」(原題はHalfblood Prince)の謎解きもちょっと唐突。最後の「死喰い人」たちと魔法学校の先生(不死鳥の騎士団)との対決も、はらはらどきどきとはちょっと違ってるような。前巻の最後の、魔法省での戦いに比べてもちょっと迫力もないように思えるなあ。
そしていろいろでてきた新たな「謎」。ううむ、もう勘弁してくれという気持ちと、気になるから謎解きをしてくれという気持ち。これがあるから次の巻も読んでしまうのだろう。うまくやってるなあ。

ぼくはもちろん、ハリー・ポッターの最期まで見とどけるつもりでいますよ。


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4月8日(日)

ノスタルジアだけでなく

子供の頃、毎週「少年マガジン」を買って読んでいた。友達の間では「マガジン」派と「サンデー」派があって、「マガジン」は「巨人の星」や「あしたのジョー」に代表されるようなスポ根ものとかまじめものとか路線、「サンデー」は「おそ松くん」に代表されるような軽いもの路線、という気がしてた。思いこみかもしれへんけどね。
「巨人の星」と「あしたのジョー」の連載が終わったころが漫画を卒業した頃、という気もするなあ。だからこのふたつがなんとなく、ぼくのマンガ少年やった時代の思いでの代表、という感じなのだ。

その「巨人の星」が復刊されて、というか新たに編集されて、なのかなあ。元をはっきり覚えているわけではないので、ちゃんとした復刊なのかどうかわからないのだけれど。ともかくも、いわゆる「コミックス」単行本を何冊か束ねたような太めの本が出ているのだな。めずらしくもマンガを図書館で借りて読んだわけ。
それは、ちょっとしたノスタルジーもあるんやけど、子供の時に何もわからずに読み飛ばしていたところが、ほんまはどんなんやったのか、今読んだら別の見方ができるんちゃうかという思いもあって借りたのですね。

で、改めて読んでみて。いろいろ思い違いというか、思いこんでいたことがあったなあと思ったな。

たとえば、父星一徹。何かというとちゃぶ台をひっくり返し、怒鳴り散らすスパルタ親父だと思っていたのだが、飛雄馬はそんな父親を心底愛していて、「父ちゃん」と呼んで抱きついたりするのだな。まるっきりファザコンではないか。
そしてその一徹本人も、死んだ飛雄馬の母親の話になると顔を赤らめるようなお茶目なところもある。ただの頑固親父ではないところがおもしろかったなあ。

第1巻では飛雄馬が高校に入学し、甲子園を目指す、というところまでを描いているのだが、これがただのスポ根もの、天才児ものと違うのは、全くなってない高校野球部(星雲高校)でひとりチームを引っ張るつもりが、チームワークを乱すことになるという、ただの「根性もの」ではないところを描いているのもすばらしいなあ。

まあマンガですから、「そんなことはおかしいやろう」ということもいっぱいあるんやけどね。花形満がスポーツカーに乗ってたり(不良やからそんなこともあるのか)とか、あとあとまで出てくる「魔送球」とか。
花形満が放った場外ホームランを、場内へ打ち返す左門豊作とかね。そういえば花形満の「ノックアウト打法」なんて、高校生にできるはずもない(その打法は高校入学前にあみ出している)。
そんなことを言い出すと、マンガそのものが成りたたへんけどね。ああそうそう、「大リーグボール養成ギプス」もそうですね。

などと、いろいろ楽しく話がつながってしまう。マンガっておもしろいなあ。
実はこの本、借りてきたその日と次の日に、すっかり読んでしまったのだなあ。あっという間に、というわけにはいかなかったけど、ついつい時間を忘れて読んでしまう。マンガって時間を食うなあ。


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4月9日(月)

不思議な妙なそして心に残るような

前に読んだポール・オースターの本は「リヴァイアサン」だったなあ。しかも途中でほっぽり出してしまったのだった。よお分からずにね。訳が悪かったわけではなく(同じ柴田元幸訳)、話の流れがつかめなかったのだな。なんの話やったんか、いまではすっかり思い出せない。
それに比べると「偶然の音楽」はわかりやすい。

妻に逃げられた消防士のナッシュに、突然父親の遺産が転がり込む。仕事を辞めて車を買い、ドライブを楽しむことに。1年以上走り回って、そろそろお金が尽きかけたころ出会ったのがギャンブラーのポッツィ。天才的な腕を持ちながら文無しになってしまったというポッツィに、残りのお金すべてをつぎ込んで富豪とのポーカーに挑むことに。「間違いなく勝てる」はずの勝負は・・・・。そこから話は意外な方向へと進んでいく。

物語の最初の方は、漂流するナッシュを追いかけていくのか、よくあるロードストーリーか、と思わせる。しかしポッツィに会ってから、話が変わっていく。おお、これは昔西部劇にあったような、あるいはあのスティーブ・マックウィーンやポール・ニューマンがでていたようなギャンブラーストーリーか、と思いきや、一見無駄に思える石積みをするハメになるふたりを描いていくという、安部公房の「砂の女」を思わせる展開になり・・・と、なんなんだ、この小説は。

「わかりやすい」といってもこの程度なのだ。いやいや、それぞれの場面が映像的なので、話の筋道を追いやすい、と言った方がいいのか。
それぞれの場面場面を追いかけていって楽しめばいいのかなあ。ただひとつ揺らいでいないのは、すべてがナッシュの視点で描かれているということ。そこだけを見ればどこかカズオ・イシグロの一連の小説を思い起こさせるものがある。ただし、事実を(それは語り手が語る事実なのだが)淡々と綴っていくという味わいのあるカズオ・イシグロとは違って、ポール・オースターはもっと刺激的。そして感情的だなあ。
安部公房と比べてしもたけど、確かにその臭いがする。そういえばふたりともカフカに深い影響を受けたという話を聞いたことがあるなあ。
そうそう、書きながら思いついたけど、この話の展開が意外な方向に(主人公の感情も)いってしまうのは、カフカにそっくりともいえるなあ。
そして、最後にはまるで、レコード盤から針をはずすようにぷっつりと話が終わってしまうのも。


別役実の「淋しいおさかな」というのは、池辺晋一郎が合唱曲にしていて、レコードも持っているのでよく聞いた。一度舞台で演奏しているのを聞いたこともあるけれど、なぜかレコードで聞くほどの感動がなかったな。それは演奏の善し悪しではなくて、「童話を合唱曲にする」っていうことの難しさというか、堂々と何十人もの成人男女が、まじめくさって歌っているのを見ながら聞くのと、ただ音楽だけ、言葉だけに耳を傾けるのとの違いのような気がする。って、ここは音楽のことを書くんじゃなくて、その原作となった童話の話。

図書館で「淋しいおさかな」の背表紙をみて思い出したのは合唱曲のことやったので、こんな話になったんやけどね。あらためて手にとって、後書きをみて驚いたんやけど、これはNHKの「おはなしこんにちは」で放送していた話なんやな。懐かしい。よく見てたよ。たぶんもう中学生とかになってたと思うねんけど。
だから中に収められている22編の童話のうち、いくつかは「ああ」と思い出せる話もあった。
そうそう、「白い小さなロケットがおりた街」では、朗読していたお姉さん(田島令子だった)が、読み終わったあとしくしくと泣き出して、
「これで・・・・おしまい・・・・」
と言ったあともずっと泣いていて、そのまま番組が終わったのだった。それが演出とかじゃなくて、読みながら泣けてきたっていうのが子供でも分かって、そんな様子をテレビで流すなんてことは(当時は)なかったから、びっくりしたのを憶えている。
今読み直すと、たしかに泣きたくなるような話だ。

で、そのほかの話も、どこか泣きたくなるような話がいっぱいなのだな。こんな話を幼児向け(だったらしい)の朗読として放送していてよかったんだろうかって思ってしまう。
幼児向けの童話といえば、普通は昔話でしょう。ほら「まんが日本むかしばなし」みたいな。そしてそれらはどこかに教訓めいたところがあったり、あるいは愉快だったり、あるいは怖かったりするんだけれど、別役実はちょっと違う。

表題作に代表されるように、ちょっと「淋しい」のですね。読んだあとに、心の中にちょっとぽっかりと何かが空いたような、あるいは何かが居座ったような、って全く逆の感情なんだけど、そんな思いにさせてくれる話ばっかりなんですよね。もちろん、すべてが同じような起承転結になるわけじゃないんだけど。それどころか、とてもバラエティに富んでる。

ナンセンスに終始する「象のいるアパート」や「馬と乞食」があるとおもえば、皮肉に満ちた「みんなスパイ」や「機械のある街」「穴のある街」「可哀そうな市長さん」、そして胸を締め付けられるような気分にさせてくれる「お星さまの街」「淋しいおさかな」「白い小さなロケットがおりた街」
ばらばらなテーマのように思えてまとまっているように思えるのは、舞台が「街」であること、悪人が居ないこと、そして「いい方向へいい方向へ」行こうとして結局破綻してしまうという筋書きか。でも悪人がいないのでどこにもその思い(怒りとも違う)を持っていきようもなく、ただむなしく空を見上げるとか山から街を見下ろすとかしかできないのだな。哀しいね。

ともかく、人の心の温かさ(そしてむなしさ)を読んで泣きたいひとは読んで下さい。泣けるよ。昨今の上っ滑りな感動とかとは違う、もっと心の根っこの方にある悲しさとか淋しさとかを思い出させてくれる。

ところで。この本にはしょっちゅう「乞食」さんが出てくるのだな。今朗読しようとしてもできないでしょうね。「馬と乞食」なんか題名からしてアウト。「二人の紳士」は街で尊敬されている(!)身なりのよいふたりの乞食が、隣町からやって来たみすぼらしい乞食を「りっぱな身なりに」しようと努力するお話で、とっても面白いんだけどなあ(結局、隣町の乞食さんは「更正」に耐えきれずに、隣町に戻ってまじめに働くことにするっていう皮肉話)。残念やなあ。


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4月15日(日)

軽いけど面白くて考えさせられて

ぶたこに薦められて読んでみた。「ボーイズ・レポート」は今のアメリカのヤングアダルト小説になるのかな。
面白くて、一気に読んでしまったよ。次の展開を知りたくなってね。別に推理小説ではないよ。でも「このあとどうなるの?」という気分になってしまって、どうしても途中でやめられなくなる。ううむ、こういうの、珍しいな。

主人公ミーガンは一人っ子。軍人のお父さんが韓国の基地に赴任することになって、一緒に韓国に行くか1人残って知り合いのおじさんおばさんの家に同居するかを迫られる。結局ひとりでアメリカに残ることにするのだが、その叔父叔母夫婦の家には男ばかりの7人兄弟が居たのだった。もともと男性恐怖症(?)気味のミーガンはどうなる?
しかもおばさんは、初めて「娘」がきたことに舞い上がっていて、一緒にショッピングやエステに行きたがる。ミーガンはサッカー好きのアウトドアな女の子で、買い物も化粧すらも興味はないのに。
唯一の救いは転校した学校、そこでサッカーチームにはいること。と思いきや、ここには学校一美人の誉れ高く、しかもチームのリーダー格でもある(しかもお高くとまっている)ヘイリーが君臨していて、なにかとミーガンに当たってくる。
さて、両親とも別れてしまったミーガンはこれらの困難をどう乗り越えていくのか。引っ越してからの二週間の物語が始まるのである。

まあよくあるような、学園もの、青春ものの感動ものなんやろうと思いつつ読み始めたら、先に書いたとおり途中でやめられなくなってしまったのであるな。展開がスピーディーなこともあるけれどね。とにかく最後まで一気に読めてしまう。というか読んでしまった。

主人公が、サッカーがうまいという以外には、特に取り立てて取り柄がないというか、特別な才能を持っているわけではないのに、降りかかってくるいろんな問題に前向きに、真正面から立ち向かっていく姿がさわやかだ。おもわず「がんばれ!」と声援を送りたくなる。
どうやって自分を認めてもらうか、ということよりも、どうすれば自分の正直な感情を伝えられるかということに思いがかたむいていくのが、とてもおもしろい。
そして表題の「ボーイズ・レポート」とあるように、男の子の心理をいろいろ分析して親友にメールするのだが、それがとても的を得ていると、おじさんも共感するのである。うまい。

同居する7人兄弟のそれぞれの個性が、よく描かれているようで、いまひとつはっきりしないところもあって(7人もいるからねえ。ややこしくなりすぎているであるよ)、そこだけが惜しいなあ。結局は何人かとももめ事みたいなことになってるみたいに見えるし。

でも、「やや意外な」結末も楽しかったし。さわやかな終わり方(感動的にならないところがまたいい)には感心。


各方面で話題の、そして好評の奥田英朗作の「イン・ザ・プール」を読んだ。いや、確かに面白いであるよ。
精神科医伊良部一郎のもとには、心を病んだ人たちがやってくる。やってくるのだが・・・この伊良部一郎本人がとてもあやしい。まずはとにかく注射をしたがる。それも鼻息荒くなって。注射フェチなのだ。しかもただ1人いるナイスバディな看護婦は露出狂?
そんな精神科医にかかって患者は治療されるのだろうか?

やってくる患者はプール依存症のサラリーマン(泳がずにはいられない)、陰茎硬直症の営業マン(勃ちっぱなし)、携帯電話依存症の学生、自意識過剰のコンパニオン、等々。
そんな患者たちに伊良部一郎は
「話を聞くだけで病気なんか治るわけないジャン」
と平然と言ってのける。
それだけならまだしも、患者の病気に積極的に関わってくるのである。つまりプール依存症の患者と一緒になってプールに入り浸る。携帯電話依存症の学生に携帯の使い方を教わって、しょっちゅうメールをするようになる、といったぐあい。

やがて患者がみずから(という感じだ)自分を取り戻していくという、なんとも都合のいい話がなのだが、だったらこの伊良部一郎はなんなのだ?

ふと思い出したのが、わたくしの大好きな「ぶたぶた」に似ている。特異なキャラクターが悩んでるひとの悩みを癒す。パターンは一緒やねんけど、こちらはかわいいぬいぐるみなんだけど(それがしゃべったり諭したりするのはやっぱり変やけど)、伊良部一郎はれっきとした人間。しかしキャラクター的にはやっぱりおかしい。

いろんな書評で書かれているように「抱腹絶倒」とはならへかったけどね。まあ売れるのは分かるような気がする。楽しくて癒し系、しかもあり得ないくらいの変なキャラ。


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4月23日(月)

大まじめに

パンツが見えたらうれしいか? うれしい。世の男子はほとんどそうだろう。でも、なぜうれしいのか?
井上章一は「パンツが見えた。」で、独自の説を展開する。
昔の女性はパンツをはいていなかった。それは知っている。ではいつからパンツをはくようになったのか。
よく言われるのは「白木屋百貨店火災事件」
しかし、著者はその説に真っ向から異を唱える。当時の新聞や警察発表から、「パンツをはいていなかったから、火災から逃げられなかった」という風評を一掃する。そのうえで、昔の女性はパンツをはいていなかったから、「今とは違う羞恥心を持っていた。あるいは持っていなかった」のではないかと推察する。その根拠を当時の文学に求め、一つ一つ検証していくのである。

まあ、ひと言で言うと、実にくだらないことを一生懸命、大まじめに取り組んで解説しているのであるな。それがまた面白いのだよ。だって、他では誰もやりそうにないねんもん。

昔々の女性は、パンツをはいていなかった。だから時々「そのもの」が見えたりした。それを「死ぬほど恥ずかしいこと」とも思っていなかったようだ。という説が展開される。
まじめにまじめに、数々の例を挙げて解説してあるので、納得していくのだな。
さらに進んで、「ではいつからパンツを見て、うれしいと思うようになったのか」というところに行くのである。

ああ、そういえば僕が子供のころは、スカートから覗くパンツを見ても、あんまりドキドキもせえへんかったかなあ。いや、あれは子供やったからか。そういえば「スカートめくり」なんてのがはやったのは、いつやったかなあ。
そのあと、中学生のころは確実に「パンツが見えた」ら、うれしかったな。それでも時々、「そんなん見て、何が面白いの?」と開き直る女の子がおったのはおった。
つまりこの本で述べてあるように、女性と男性では羞恥心の感覚にズレがあったのだろうなあ。パンツが見えてこっちは喜んでても、見られた当人は「ふん」と平気であったりしてね。

そういうふうにいちいち納得してしまう。そして人間の感覚とか常識とかは、時代によって変わっていくもんやということを再認識させてくれるのだ。いい本やな。
ただねえ。まじめにまじめに取り組みすぎたか、論の展開が「これでもかっ」というぐらいにくどくなってしまっていてね。最後まで読み切るのはちょっと根性がいったよ。途中で言いたいことは分かってしまうし。まあ、学術書というのはそういうものなのかなあ。


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4月25日(水)

知らなかった有名な話の発端

「アラビアン・ナイト」は誰でも知ってる話。シャハリヤール王は毎夜お妃をめとっては殺してしまう。そこへシャハラザードが嫁いでいく。シャハラザードは毎晩お話を聞かせて、千一夜をついやして、ついに王の心を和らげる、というのが話の発端。その千一夜をついやした話そのものがアラビアン・ナイト、ということになっている。

ところで、どうして王様は毎夜お妃を殺すようになったのか、というのはあんまり話にのぼらないのであるな。
そこでこの東洋文庫版「アラビアン・ナイト」の登場ということになる。なにしろ初の「アラビア語からの翻訳」なのだ。ということは今までわたしらが読んでいたのは何? 多くは「バートン版」とかいう、英語に翻訳されたものからの翻訳らしかった。多くの話ははしょってあったり表現がゆるめられていたり改編されていたりしたらしい。いや、詳しくは知らんけど、たぶんそういうことやろう。
なんでそう思うかというと、この東洋文庫版が、よく言えばおおらかで悪くいえば表現が直截的で、なんとも少年少女向きではないからなのだが。それが元々のアラビアン・ナイトだったんだろうなあ。だいたい昔の説話集というのは、たいしてタブーのないもの、あるいはタブーを押し隠したもの、あるいはタブーになることを話しておもしろがるものが多いのだし。

いや、一般論化してはいけないね。ともかく、この「アラビアン・ナイト」の話。そもそもの最初からがとっても面白い。よく知ってるはずの話のよく知らなかった部分が明らかになるっていうことは、秘密の部分を教えてもらったような、くすぐったいような楽しみがある。

そもそもの発端は。兄弟の王がいて、それぞれの国を治めていた。ある日、弟王が兄のところに訪問することになり、王妃を宮殿に残して出発するのだが、途中で土産物を持ってくるのを忘れたことに気がつき、宮殿にとって返す。すると寝室で王妃が奴隷と「まぐわっている」のを見つけてしまう。
王妃と奴隷をその場で手打ちにして、再び兄の元に向かう弟王。兄王の歓迎を受けても心が晴れるはずがない。ふさぎ込んだままの弟を見かねた兄王は、弟を狩りに誘うが、弟王は断ってひとり兄の宮殿に残ることになった。
兄が家来を引き連れて狩りに出かけてしまうと、宮殿の奥の方でなにやらにぎやかな騒ぎが起こる。弟王がそおっと覗いてみると、兄王のお妃が大勢の女奴隷男奴隷を広間に集めて乱交パーティーを開いている。もちろんお妃は一番の男奴隷と「ご乱交」されている最中であった。これを見た弟王、これに比べたら我が身に起こった不幸などたいしたことはないものだと、心が一気に軽くなる。
さて、狩りから帰った兄王、弟の機嫌の直りようを不審に思い、なぜ来た当座はふさぎ込んでいたのか、そしてなぜ急に機嫌良くなっているのかを問いただす。もちろん弟王はそう簡単には真相を明らかにしないが、兄王があまりにしつこく問いただすので、ついに一部始終を明かしてしまう。

今度は兄も心がおかしくなる。傷心の二人は連れだって宮殿をあとにし、放浪の旅に出る。そして二人で野宿をしていると、すぐ近くで物音がする。そおっと覗いてみると恐ろしい魔神が立ち現れる。息を潜める二人。すると魔神は岩の間から小さな小箱を出し、うれしそうに蓋を開ける。すると中から驚くような美女が出てくる。さてはこの女をもてあそぶのか、と見ていると、魔神はその女の膝枕で気持ちよく寝てしまう。なんというこ、と驚いていると、その女が二人を見つけて、「さあ、順番にわたしを突きなさい」
二人の王はびっくり仰天。最初はおまえが先にとお互い譲り合い、なんとかその場をやり過ごそうとするが、女がいらいらし出して結局女の言うがままに。
ことの終わったあと、女が言うには「わたしは元々この魔神に誘拐されたのだが、いまではこのとおり魔神を意のままにあやつって、自分は自分で楽しんでいるのだ。もう570人と楽しんだよ」
こうして女の性の恐ろしさを実感した二人の王は、すごすごと自国に帰っていった。

で、この兄王がシャハリヤール王なわけでね。どういうわけか弟王はその後いっさい話の中に出てこないのだね。まあ昔の話ですから。兄王は帰るやいなやお妃と男奴隷を打ち首にして、それ以来「乙女のみを」お妃にして、すぐに殺してしまうということをするわけですな。どうです。これ自体がすごく面白い話でしょう。

さらにさらに。シャハラザードの話す物語は、話に話を継ぐために(かどうかはわからへんけど)、ともかく一つの話が長い。そして話の中に出てくる人物が、また別の話を始める・・・という風に2重3重の話がつながっていくのですな。
もちろん、話の途中で必ず夜が明けて、「この続きは明晩に」ということになるのです。いやはや。

そんなわけで、個の第1巻には4つの話が入っているんですが、そのなかにまた小さな話が入ってるので、ロシアのマトリョーシカ人形のような話の構成になっていて、それがもう、やめられなくなるというか、王様でなくても話の続きを、話の結末を知りたくなる。いや、ずっと昔々に、よくこんな話ができたもんやなあと、感心しますわ。
それに、翻訳がとってもよろしい。格調の高さと卑俗さとがぴったりと密着していて、こんな面白い訳はそうないであるよ。岩波書店からも全集版が出てるけど、わたくしはこちらをおすすめします。


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4月28日(土)

不条理ということ

カフカは生涯に3つの長編小説を書いたが、そのどれも完成させることはできなかった。「失踪者」(かつての「アメリカ」)を書いたときに、時系列で発端から順番に書いていって(それが小説を書く「作法」だと思っていたらしい)、話が続かなくなって未完になってしまった。
その反省から、「審判」ではまず、序章と終章を書き、あとから間の章を埋めていくという手法を取った。
ところが、間の章すべてをまったく矛盾なく、完璧に整えることができなくなり(パズルの組み立てに失敗した)、結局これも未完に終わってしまう。しかし幸いなことに(?)終章はできているので、何とか話を完結させることはできる。結末は決まっているのだ。
死後、残された断片をつなぎ合わせてできあがったのが現在の「審判」なのだそうだ(以上、解説からの受け売りである)。

おかげさまで、途中の話がだらだらといろんな方向に散らばっていくのに、終章になっていきなり結末が告げられる、という形になっていて、これでは視聴率が悪いから打ち切りになったテレビドラマのようだ。
それでもいまだに人気があるのは(人気があるという言い方もおかしいけれど)、なにしろ途中の挿話のおもしろさからくるんやろうなあ。

あらすじは実はすごく簡単で、ある朝銀行員のヨーゼフ・Kが逮捕される。しかし何の罪でかは逮捕した「係りのもの」も知らない。Kにも身に覚えがない。
なんとか無実を証明しようとするが、何についての無実を証明するのかも分からない。さらに弁護士によると、最初に提出する書類の準備が手間取るらしい。そんなこんなで裁判は全く進展しない。いやそれどころか、まったく開かれる様子もない。だがKの会う人会う人すべてが、何らかの形で裁判所とつながっているらしいのだ。
こうして全く打つ手がない中、ヨーゼフ・Kの「刑の執行」が行われる。「犬のように」くたばるのである。

逮捕されるところと処刑されるところが、序章と終章。その間、裁判を巡って堂々巡りを繰り返す。ほんまにいらいらするくらい。いろんな人が出てきてKに助言なり励ましなりののしりなどするが、その誰もが裁判所とつながっている。それを当然と思っている。
閉ざされた世界で、堂々巡りをさせられる不安感がずっとつきまとう小説なのだなあ。それでいてKはなかなかのプレイボーイぶりを発揮することもあって。ただの「悩める現代人」でないところが、同情する気になれないところなんやなあ。まあ人間はこんなものなのかもしれませんが。

逮捕されたのに「逮捕されました」といわれただけで、そこから先何も変わったことが起こらない不思議。だがそれでよけいに不安になる。予審のために申請をしなければならないが、その書類はいつまでたってもできあがらない。なんか、読んでるうちにこちらも悪夢の中に迷い込んだみたいな気分になるなあ。

初めて読んだのは中学生ぐらいやったかな。当時の角川文庫で。それはそれはひどい訳と装丁で、とても読みづらかった思い出がある。なにしろ、ページの途中で文字のフォントが変わってしまっているのだ。たぶん、途中までを訳し直して、そのときに新しいフォントにして、それと気づかずに前後をつなげたんやろなあ。それ以来、角川文庫は敬遠してる。


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4月29日(日)

不思議な話再び

エドワード・ケアリーの「アルヴァとイルヴァ」は妙な話だ。舞台は架空の町エントラーラ。アルヴァの手記に、書き手が解説するという形になっている。そしてその本は「アルヴァとイルヴァ・町を救った双子の姉妹」という題が付いている、エントラーラの観光案内も兼ねている。章と章の間に、レストランや遺跡の紹介なども載っている。もちろん、すべて作者の創作である。作者の創作ということでいうと、驚くことに各章の扉に載っている写真(本の扉にもある写真)にある、エントラーラと双子の姉妹の像も作者の創作だそうだ。彫刻家、画家でもあるそうだ。

エントラーラに双子の姉妹がおりました。アルヴァとイルヴァ。ふたりはプラスチック粘土で町の模型を作りました。アルヴァは町に出てその寸法を測り、イルヴァは家から一歩も出ずに模型を作り続けました。そして町に悲劇が起こったとき、町の人々の心を癒し勇気を与えたのはその模型でした。

というと、感動的なおとぎ話になりそうなのだが、そうはならないのだな。アルヴァとイルヴァはいつも一緒にいる。しかしアルヴァは独り立ちしたい。イルヴァは離れたくない。子供のころは一緒にいるのが普通だったけれど、徐々に二人の間に溝ができていく。しかし二人はやっぱり離れられない。離れては生きていけない。
アルヴァには恋人ができる。イルヴァは嫉妬する。アルヴァは外の世界へ出ていこうとする。イルヴァはそんなことをしたら死んでしまうと泣き叫ぶ。
粘土の町の模型は、外に出たいアルヴァと家から出たくないイルヴァの妥協点でもあったのだな。町の模型を見ている間は安心するイルヴァ。町の模型ができあがれば、外に出るのも怖くなくなるだろうと考えるアルヴァ。しかし、模型が完成する前に町は崩壊する。

人知れず作ってきた町の模型。それを町の人たちは(アルヴァとイルヴァのことを不穏な目で見ていたのに)奇跡と呼び、癒される。しかしそれは二人にとってなんの関係もないことだった。アルヴァは一刻も早く町を出たかった。イルヴァは誰にもじゃまされずに模型を作り続けたかった。そして不思議な運命がふたりに起こる。そして話は終わる。

ほとんどがアルヴァのひとり語りで書かれているので、アルヴァの私小説として読み進んでいくと、ときどき名所案内が挟まって、妙な感じで現実に引き戻されるような気がする。
アルヴァの手記(の形を取った本体部分)が終わって、後日談のような形で書き手の手記が加わる。どこか「アンネの日記」のような雰囲気。内容は全然違うけど。

読み進んでいくうちに、「町を救った」うんぬんというのは、この書き手の主観であることが分かる。双子の姉妹には、町を救うなんて気はさらさら無かったのだ。話の内容も、ほとんどが二人の関係について、その不思議なつながりについて、なのだ。題名にだまされてはいけないな。作者の術中にはまってしまった。


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