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5月2日(水)
こういうのもブッカー賞の候補になるのか
「フェンス」の舞台はイギリス。家畜用のフェンスを作る仕事というのがあるのだね。主人公の「おれ」はイングランド出身で、スコットランド出身のふたりの職人とは、最初ウマが合わない。なにしろふたりの職人は仕事はできそうなんだけど、気位が高い割には仕事のできそのものはいい加減みたい。で、突然監督者としてやってきた「おれ」とはそりが合わない。これはあたりまえ。
ボスから仕事を言い渡されて、フェンスづくりに牧場に行くのだが。行く先々で問題を起こすのだね。はっきり言ってしまえば、オーナーを「うっかり」死なせてしまう。ちょっとした事故で。で、どうする? もう、そのフェンスの「門」のところに埋めてしまおう。
そんなわけで、フェンスはできる、オーナーはいない。お金は入るの? で、ボスはこのことに気がつくかな?
なんていうことが次々に起こっていくのだな。
ピカレスクロマンとかいう、かっこええ言葉は全く似合わない話である。なにしろ二人の職人はどうにもろくでもない人間にしかみえない。どうやらフェンス職人としての腕は一流のようなのだが、なにかというとさぼりたがるし(すぐにふたりでたばこをふかす)、毎日ビールを飲まないとやってられない(しかもイングランドの「ぬるい」ビールには我慢ならないらしい。それでも他に飲むものがないので仕方なくそれで酔っぱらうのであるが)。
監督の「おれ」も、だんだんふたりのペースにはまっていき、最後にはボスも・・・という展開からいうと、これはユーモア小説なのか?
でねえ、これがなんでブッカー賞の候補になったんでしょうかねえ。いや、ブッカー賞がどんなもんかということはほとんど知らんねんけど。イギリスのもっとも権威のある賞、っていうくらいで。あとはそう、カズオ・イシグロが受賞してたな。
そのつながりで、カズオ・イシグロ的なものを予想してたら、すっかり裏切られてしまう。あの静かな静かな私小説とは全く違う世界。ドタバタとも言えるな。
訳者のあとがきに作者の経歴が書いてあるけど、元フェンス職人だったらしい。ほんまかいな。いまでも労働者階級からの作家というのは珍しいらしい。ああ、イギリスやなあ。
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5月4日(金)
小説雑誌ってどうなんやろう
ちょっと興味があって、図書館で小説雑誌を3冊借りてきたのだ。群像、文學界、すばる。そしてもう一冊、これは小説雑誌とは違うのかもしれないけれど、まあ小説現代の特別号ということで「エソラVol.1」。
「エソラ」というのは「絵空事」のことだそうで。ともかく空想の話を集めてある。もちろん新作(なのだろう)。
空想の話といっても、SFばっかりではない。私小説あり、青春マンガあり。そう、小説とマンガとが一緒になってる。むかしSfマガジンというのを読んだことがあったけど、そんな感じ。ってよけいにわかれへんか。
小説が4編とマンガが5編。どれも「絵空事」なんだけど、それぞれの肌触りというか色合いというかおもしろみというか、そういうのが違っていて、バラエティに富んでいると言えるな。当然、出来不出来好き嫌いはちょっと分かれてしまうのだけれど。
ずらっと内容をあげると、小説が
「魔王」伊坂幸太郎
「台北迷路」吉田修一
「あす死んだ人」氷川透
「俺たちの宝島」渡辺球
マンガが
「ガルーダ」五十嵐大介
「呪縛霊」真鍋昌平
「私の愛しい脂肪について」安彦麻理絵
「青春なんてララーラーララララーラ」杉村藤太
「ワイルドさん」加藤伸吉
マンガはどれも短くて、あっという間に読めてしまう。なかでは「ガルーダ」が、ファンタジーなんだけど詩情があって、しかもマンガ独特の手法というか、映像の切り取り方と話の構成がすばらしい。
廃品回収業の若者二人が、山奥の一軒家に案内される。そこには穏やかな風情のおばあさんが一人で住んでいた。物置を整理していると、ガルーダ(怪鳥)の衣装が出てくる。おばあさんは昔、歌劇団のプリマだったのだ。売る前にもう一度その衣装を着けて踊りたい、とおばあさんは言いだし、ガルーダの舞を踊るのだが、意外なことが起こる。
ああ、言葉で書くと実にもどかしい。これはもう、絵を見てもらうしかないなあ。例えばですね、おばあさんが家の前でガルーダの衣装を着て手を振っている。しかし次のコマには、同じ風景で、おばあさんの姿だけが消えている。あれ? これってどういう意味? と不思議な感覚にとらわれると、最後に「ええええーーーっっっっ??!!」という結末が、ぽんと出される。ああ、これはほんまに、言葉にはでけへん。さりげなく生と死の形而上的な問題にふれているところも見事。
小説の中では「魔王」が一番気に入ったな。主人公のサラリーマンはある時、自分の心で思った言葉を、他人の口から言わせることができる「超能力」を身につける。折しも国政選挙の最中で、急進的な政党党首が人気を集めつつある。彼を止めなければ。そのためにこの力を使って・・・・しかし意外な「敵」が現れる。
ちょっとスティーブン・キングの「デッド・ゾーン」を思い起こさせるけれど、急進派に傾いていく民衆という設定は、ちょっとリアルすぎるような気もして。それだけ現実が恐ろしいということやなあ。
「台北迷路」は、ちょっとした言葉の行き違いとか感情の行き違いとかの話で。そう変わった話でもなかったなあ。「あす死んだ人」はタイムパラドックスの話なんやけど。この舞台がどこかというのが最後の方までわからなくて。SFと推理小説を合わせたようなものなんやけど、ちょっと都合が良すぎる、ありきたりな感じもする。
「俺たちの宝島」は、一種のパロディ小説とも読める。階級闘争とその崩壊。しかし結末は意外というか、はちゃめちゃともいえるなあ。それでかえって、ちょっと救われたような気分になったけど。
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5月12日(土)
その他の小説雑誌
調子に乗っていろんな小説雑誌を読もうと思ったけど、全部は読みきれそうにないなあ。こういうのはどういう人が読んでるんやろう。評論家とかかなあ。まあ新しもの好きの人とか。僕も新しもの好きなんやけど、とてもすべての「新」にあたるわけにはいかんなあと思たな。人間業やない。ま、適当に読み飛ばす、ということもできそうやけど。例えば連載ものとかね。
そうそう、連載ものとかは、どのみち途中から読み始めることが多くなるわけやけど、これは面白いのかなあ。僕はハナから諦めてしまったけど。読んでみたら楽しいもんなんやろか。わからないままであるよ。
「群像2006年11月号」はほとんど読んだよ。というか、これをほとんど読んで、いやあ疲れるなあと思ったから、後がつづかへんかったのかもなあ。
表紙に載ってる「ヤング・ドーミン」(清水博子)については、日記にもちょっと書いたけど。読みにくい。ああ読みにくい。固有名詞もわかりにくい。句読点も少なくて、ダラダラしゃべる人の話を我慢して聞いているような気分になってくる。それに慣れたころ、話は突然終わる。なんじゃそら。
加藤幸子の「バッツィー」がけっこう面白かった。ううむ、わしってこういうファンタジーものに弱いのかなあ。やや現実逃避的? でもないと思うねんけど。
長編評論、「太宰と井伏−ふたつの戦後」は、ふたりの作家の接点を探りつつ、その背負っていたものがどう影響していったのかを論じている。そうかあ、と思うところあり。まあこういう評論は読み慣れていないので、「こうです」と言われると「そうですか」と納得してしまうのであるな。それでもちょっと「?」と思うようなところもあり。まあ、こういうのを読んでしまうのが、小説雑誌の特徴なのかも。普段なら手に取らない内容である。
「すばる2006年11月号」は特大号。「すばる文学賞発表号」なのだな。「すばる」は「群像」に比べるともっと軽い小説っぽいような気がする。軽い、の意味の取り方にもいろいろあるやろうけど。それにそれぞれ1冊ずつ読んだだけではなあ。おまけに「すばる」の方は、途中でくじけてしまったよ。
文学賞を受賞した2作品(1作は本賞、1作は佳作)、それぞれ面白かったけどね。評にも書いてたけど、「あとひとひねり」というものがあったらなあ。それぞれ結末がある程度読めてしまうというか、結末のあること自体が妙な気分になるような、つまり本編と結末のバランスがあまりよくないのだなあ。どちらかというと、佳作の「テーパー・シャンク」の方が僕の好み。
もうひとつの特集が「エイミー・ベンダー」という作家。知らん人やなあ。短編が4つと、日本旅行記、対談など。結構好きかなあ、こういう色合い。で、日本語翻訳になるとがぜん読みやすい文章になるのだな。まあ当たり前なのだろうけど。
そのほかには「日竹カンパニ」(岡崎祥久)を読んだ。「日竹カンパニ」に就職する作家の話。だが肝心の「日竹カンパニ」についてはほとんど謎のママ。主人公の日常だけが語られる。妙な気分になるなあ。で、これで終わりかいな、という幕切れ。続編があるのかなあ。話は広がりそうなんやけど。
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5月15日(火)
面白いかどうかの分かれ目
江戸川乱歩全集もちょっとずつ進んできた。でも最後まで、つまり全集全部を読むかなあ。読む気になるかなあ。ちょっと不安。というか、別に全部読まんでも、と思いだしている。
それというのも第5巻の「押し絵と旅する男」が、いまひとつピンと来なかったせいなのだな。ピンと来ない、という言い方は変やな。早い話が面白みがいまひとつということやねんけど。
「押し絵と旅する男」は、推理ものではなく幻想もの。そんなことがあるんかいな、と思わせる内容。もちろん、ホンマにそうなのかどうなのか、は最後まで分からんから、まあそこが面白みになってるんやけど。
しかし。遠眼鏡でみかけた女性に一目惚れして、恋煩いをしてしまう、というシチュエーションは、いくら時代がかっているとはいえ無理があるなあ。ましてや、いまのわたしらにはどうも理解不能。まあそれも含めて「幻想的」といえなくもないけど。
「蟲」は依然読んだから飛ばして。
「蜘蛛男」やけど、これは推理小説? と呼ぶには、あまりにもトリックが稚拙。トリックらしいトリックはなし。最初は犯罪学の博士と「蜘蛛男」(本文中には「青髭」としか出てこない)との対決か、と思わせておいて、途中からおなじみの明智小五郎が登場。こうなるとトリックは一気に片がついて、そこからはどこかドタバタじみた芝居になる。
本格的な推理小説より、こういう軽めのドタバタが受けた時代だったようだけれど。捕まりそうで捕まらない「蜘蛛男」というのを延々読ませられると、まるで安物の連続ドラマを見てる気分になったよ。どんでん返しも、まあまあ。
そしてもう一作、「盲獣」になると、これはもう推理小説とか探偵小説とかいう以前の問題で、ただのグロテスク小説、猟奇小説。探偵も出てこなければトリックも無いに等しい。ただただ、盲人である主人公が猟奇の限りを尽くしていく様を描いているばかりである。
もちろん、そこにはおどろおどろしい、まがまがしい、ある種の耽美的ともいえるような乱歩の美的感覚も表れているんだけれど。それを楽しめるかどうかは人によりけりでしょうなあ。わたくしは、最初の方はまだしも、殺人を犯し始めるところからはちょっとねえ・・・という気分。あとがきを読むと、乱歩もこの作品はのちに自分の全集には入れないでほしいと思ってたらしい。まあ作品の出来としてもね。最初の地下室の造形だけでもう十分、といえるし。
そうそう、こういう「個人の趣味(悪趣味)にまみれた秘密の部屋」というシチュエーションって、好きですなあ、乱歩は。「パノラマ島奇譚」とか「蜘蛛男」にも出てくるし。ま、ワンパターンとも言えるけどね。
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5月17日(木)
当事者ゆえの
米原万里さんが著書の中で、
「ある事件のノンフィクションを書くとすると、その当事者が書いたものは案外面白くない。おそらく、当事者ゆえの思い入れが強すぎるせいだろう」
なんていうことを書いていたと思う。
思い入れのほかにも、当事者やとその事件の関係者とも面識があったりして、そうするとその人についてのことを書くのははばかれるやろう、というのも想像がつく。そうなると、世に溢れている「暴露本」とかのたぐいは、実は大して「暴露」されてないんやろなあ、というのも想像がつく。それでも買ってしまうのは、
「ひょっとして、そのひとしか知らんことをうっかり載せてはいまいか」
という下衆な期待からなのだが。
なんか変な話になっていったけれど、鴨居羊子の「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」を読んだあとの気分はまさにこれ。
鴨居羊子は、女性用下着デザイナーの草分け。戦後、読売新聞記者から転進して下着デザイナーになり、大阪ミナミに事務所を構え、新しい下着を次々に世に送り出す。それまで洋服の「下に着るもの」としての地位しかなかった下着を、「楽しむもの」として提供した、その先鋭性。
なにしろ舞台は昭和30年代の大阪、関西。そのころの空気を、うすうす知っている身としては、懐かしさも、面白さもよく分かるつもり。
しかし。この読みにくさはどうやろうか。はなしはしょっちゅうあちらこちらと飛びまくる。最初の下着ショーの話を、その裏話も含めて書き連ねている、その合間に家庭の事情や子供のころの話やらが唐突に挟み込まれる。いや、ややこしい。
しかし、そういう「とっちらかったところ」が、鴨居羊子の特徴なのだな、というのが最後の方まで読むと分かってくる。
下着デザイナーとして世に売れ、テレビにも出演し、時代の寵児ともてはやされ、しかし本心は表題にあるように、どこか知らない土地で下着を売り歩く行商人としての生活に憧れている。意外にも男社会のアパレル業界で、男勝りの気概を持って商売に突き進んでいくけれど、実は人見知りでシャイで、女としての人生に憧れている。矛盾した人生を歩んでいたのだなあ。
なんていう感想は、読み手が考えないといけないのだな。なにしろ本人はただ一生懸命に生きているだけなのだからね。その生き方を、自分の感情とともに綴るしかなくて。そこからその人の生き方をどう評価するか、は読み手次第なのだな。そこが評伝と自伝の違いなのだろうなあ。
最後まで読んでみると、なんだか悲しいような気分になってきたであるよ。無理して生きてたのかなあって。力いっぱい突き進んでいたけれど、ほんとはそんな生き方、向いてなかったのかなあ。いやいや、そんなことは、結局は本人しか分からないのだね。そして終わってしまったものは、取り戻しようもないのだね。
そして、その人に合っていたかどうかはともかく、その人の残したものが、後の人たちに影響を与え続ける、ということもあるのだね。それが本人の意思だったとしたら、それは幸せと呼べるのかも。
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5月20日(日)
青春だぁ!
大学図書館で「鴨川ホルモー」を見つけて、思わず(心の中で)「やたーっ!」と叫びつつ本を手に取ったのだった。
ぶたこが「そんなに慌てんでも・・・」と言ったが。
なにしろ紀伊国屋のベストセラー「キノベス」で、カズオ・イシグロに次いで堂々の第2位という評判の作品。
しかし、題名だけではなにもわからない。「ホルモー」って、何?
あらすじをざっと紹介すると。
二浪して京大に入学した安倍は、葵祭の行列にアルバイトで参加した帰りに、サークル「京大青龍会」に勧誘される。新入生歓迎コンパでの飲み食いだけを目的にサークルの会合に参加するが、そこで同じ新入生の早良京子に一目惚れ。そのままずるずると「京大青龍会」の会合に参加するようになる。
数ヶ月経ったある日、会長のスガ氏から、会の本来の目的が明らかにされる。京大の他、立命館大、京都産業大、龍谷大にも同じようなサークルがあり、その四つの大学間で「ホルモー」と呼ばれる競技を行うのだ。
「ホルモー」とは、相互10人ずつの競技者が、それぞれ100人(匹?)の「オニ」に命令を下して戦い合うというものだ。どちらかが全滅する、あるいは途中で敗北を宣言するまで続けられる。
早良京子への思いをつのらせつつ、何らの行動も起こせないまま「ホルモー」を続ける安倍。しかし、リーダー格の芦屋とのあいだに確執が生まれ、さらにそこに早良京子も加わってきて、ついに安倍は京大青龍会の分裂に踏みきる。
安倍の京子への思いはどうなる? さらに分裂した京大青龍会の「オニ」同士の戦いは?
さらに、「ホルモー」の本当の意味とは? その目的は?
というのは表のストーリー。もうひとつの流れは、サークル内での恋愛沙汰。いかにも大学生らしい(というと語弊があるかも)人間模様が展開されて、それだけでも楽しめる。しかもその人間関係が、秘密の競技「ホルモー」に関わってくるのである。
なんて書いても、どうもこの作品の面白さは伝えようがないなあ。ちょっとだけ面白く説明すると。1000年前から行われてきた(と考えられる)魔界の競技に、否応なく巻き込まれてしまう大学生たちの話、なのだな。
しかしその競技がどうにもユーモラスなので、いろんなところで笑ってしまうのである。しかししかし、物語の終わりの方では、ちょっとぞっとするような「ひょっとして、これが真相?」という話にもつながってきて。ちょっとバラすと、結局のところ、どうして「ホルモー」なる競技をやるのか、やってる本人達にも分からないのだね。でも一生懸命取り組んで、死ぬか生きるかの勝負をしている。
ああ、読みようによっては、運命に左右される人間の愚かさとか、もっと深読みすると、この人生は自分たちが切り開いていると思っているけれど、実はもっと強大な力によって支配されているのかもしれんぞ、という恐ろしさのようなものもあって。
とすると、物語の締めくくりは、ひょっとしたら「それでも、なんとかなるんじゃないか」という希望を描いているのかもしれない。深読みしすぎ?
なんていうのは、今書きながら思いついたのだ。読んでる最中は、ともかくもこの話の展開に「うほほ、うほほ、青春じゃのぉ〜」と、おっさん的視点で、ちょっと甘酸っぱい感覚にもとらわれながら読んだのだ。
それにしても、この万城目学という人、文章がうまい。スピーディーさと的確さ、ちょっとしたユーモアのちりばめ方、とても、うまい。すっすっすっと読んでしまったよ。評判どおり。
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5月21日(月)
こどもの世界に救いはあるか?
ひとくちに児童文学といってもいろんな作品がある。ヤングアダルト、となるともっと幅が広がってくる。若い人たちに読んでほしいとか、若い人向けに書いたとかいうのが児童文学であったりヤングアダルト小説であったりするんだろう。
児童文学よりもヤングアダルト小説の方が、やや問題意識を喚起するようなものが多いような気がするのは、そんな小説をたくさん読んできたからかもしれないなあ。でも児童文学と呼ばれるものの中にも、問題意識を持たせる、読んだあとに考えさせられる話というのもあるのだな。そしてすぐれた児童文学は、大人が読んでも十分考えさせられるのだな。
「チューリップ・タッチ」とは、なんともかわいい題名だが、内容はとんでもなくドロドロとしたこどもの世界が描かれている。
両親の仕事(ホテルの雇われ支配人)の都合で引っ越した先で、主人公の少女ナタリーはチューリップという名の少女と知り合い、友達になる。ところがチューリップはとんでもない不良少女だった。初めのうちはかわいい「いじわる」や「いたずら」をして、そのスリルを一緒に楽しんでいたのだが、いたずらはどんどんエスカレートして歯止めが利かなくなり、ナタリーはチューリップの監視役になっているような、それでいてチューリップに支配されているような立場になっていく。
チューリップの悪さはどんどんエスカレート。学校の壁の漆喰を剥がす、動物の死骸を人の家に投げ込む、知らない人の家に「○○を探しているんです」といって上がり込む。ついには放火事件まで。
それを止めることもできず、罪の意識に苦しんでいくナタリー。しかしある時、立場が逆転する出来事が起こって。
こどもにはこどもの世界があって、そこには大人には理解できないようなしくみやとりきめがあるんだなあ。それをどうやって打ち破るのか。大人もそんなに利口じゃないから、苦しみつつ、しかしずるがしこいところはあるから、どこかに逃げ道を持っている。しかしこどもには逃げ口はそう簡単には開かれていない。そこが苦しい。
ナタリーにも逃げ口はなかなか見つからない。チューリップも逃げ口を探しているのかもしれない。しかし誰もその逃げ口を教えてあげることはできない。それは作中にナタリーが叫ぶ、
「なにもかもわたしにまかせて、大人はなにもしない!」
というとおりだ。
この結末は、とてもやりきれない。普通の終わり方ではないから。誰かが死んでしまうとか、正しい道に進む希望が見えるとか、そういうのではない。すべての事実を飲み込んで、しかし何も解決しないままふっつりと終わってしまう印象。
あとは自分で考えろ、ということか。こんなにこどもの視線を最後まで保ったままの小説って、今までほとんどみたことがない。
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5月28日(月)
この次はどうする?
話題のベストセラー、「夢を与える」を読んだんやけど。これは「名作」かどうかは難しいところやなあ。
芥川賞を取ったとき、同時受賞した金原ひとみが、内容は過激やけど表現は堅実っていうイメージで、その正反対のところに綿矢りさがいるなあと思ったのだったな。つまり内容は平凡なんやけど、文章表現は変わってるなあと。
淡々と物語が進んでいくと思ったら、いきなり「げはは」というような表現が出てきて面食らってしまう。そのアンバランスさが魅力やったなあ。そうそう、「蹴りたい背中」にしても「インストール」にしても、ちょっと孤独で他人とは混ざりにくいけれど、どこか憎めなくて、「スタンドアローン」を貫いている、というより、そういうポリシーとかじゃなくて、自然とその位置に落ち着いてしまった若者を描いていた。そういう若者の、説明のつかない突拍子もない発想の跳躍とかがそのまま文章になってるようなイメージやったんやけどなあ。
いろんな書評とかで話題になったとおり、はじめての「三人称」小説なのだけれど。それでどこまで書けるか、試してるみたいなふうにも思えたなあ。ちょっと気負いすぎかな、という気もしたし。
えっと、話の流れを全然書いていませんが。これはある女の子の産まれてから(産まれる前から)、アイドルになり、挫折するまでの話です。
お母さんは、彼氏と別れたくない、結婚したい一心で妊娠し(相手はフランス人とのハーフ)、生まれた子供をアイドルにしていくのですな。その子夕子は素直に、CMの撮影をこなし、そのCMから人気が出てきて、高校受験のときに大ブレーク。しかし高校3年で彼氏ができて(それがまた・・・・)、大学受験のはずが落第。そしてスキャンダル。
とまあ、どこかの暴露本のような内容なんやけど。もちろんフィクションで。芸能界のこととかも「まあ、こんな感じかなあ」という域を出ない。
子供のころから大人の中で育っているせいで、同級生とはなじめない。仲良くなる男友達も出来るけれど、成長すると疎遠になっていく。
なにより、最初は親の言うままにアイドルの仕事をこなしていくのだけれど、だんだんと自覚が出てきて、「いつも演じるようになる」というところが面白いなあ。
でもねえ。
これって、わざわざ「綿矢りさ」が書く小説かなあ、という気もする。
インタビュアーに「将来どんな大人になりたいですか?」という質問の答えとして用意する「夢を与える人になりたいです」というのがこの本のタイトル。
最初はそれを単なる「答え」として言っていたのだけれど、その意味を考え出して行き詰まってしまうのですね。言葉の持つ意味を、反芻して考え直すと分からなくなるっていうことかなあ。で、自分とはなんだろう、と悩みだし、そして男性との「愛」に逃げていく。しかし、最後には裏切られて。
ええと、かいつまんで話をすると、なんか波瀾万丈の展開のようやけれど、読んだ感じは意外なほどアッサリしていて。芸能界の描写なども、いろんな大人がぞろぞろうようよ居てますよ、っていうこと以上のものはなく。
つまり作品の中心はそういう「芸能界」がどうとかではないのだろうなあ。大人の言うとおりに演じてきた女の子が、まわりを傷つけないようにしようとして、でも自分は自分でありたいと思うようになって。とか。
ううむ。どうもうまく書けないけれど。うまく書けないということは、なにか印象が散漫だからなんでしょうねえ。ひとつの通ったものがない。
いやいや、ひとつの通ったものがないことこそ、現実社会なのだから、コレほどリアルな小説もないのだ、とも言えるな。
なにしろ、善悪の区別がつきにくいことがらばっかりでね。母親は完全なステージママやけれど、主人公がそれに反抗するかというと「わたしを守ってくれているのはわかる」と、いやに物分かりがよくて。芸能プロダクションのひとたちも、そんなに悪人でもなさそう。
あとは主人公の夕子。この主人公に共感できるかどうかが、作品を楽しめるかどうかの分かれ目やろなあ。僕はちょっとだけ共感できたけど。ただ、だったら舞台が芸能界でないほうがよかったのに、とか思う。
それと、なんとなく著者の感情と主人公の感情を、重ね合わせて読んでしまうのだよ。それは深読みしすぎかなあ。
で、この次はどうする? 綿矢りさ。
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5月29日(火)
物語の「進歩」というのはあるのだろうか?
先月に続いて「アラビアン・ナイト」の第2巻を読んだ。いやあ、面白いなあ。この訳(東洋文庫版)。表現がときどき「べらんめえ」になったり、田舎のおっさんになったり。名訳ですよ、これは。
初の「アラビア語からの翻訳」ということやけど、それをここまで日本語にしても面白いものにするには、日本語のセンスも要るっちゅうもんでね。
第2巻に入っているのは「三つの林檎の物語」とそれに続く形の「大臣ヌールッ・ディーンとシャムスッ・ディーンの物語」、そして「せむしの物語」。
大きくは3つなんやけど、「せむしの物語」のなかに5つの話がおりこまれ、そのうちの最後の5つめには、その話の中に出てくる人物がまた6つの話をするという、入れ子入れ子の物語はあいかわらず。
解説を読むと、個々が一番面白い、そしていちばんややこしくなっているところらしい。
そういう学術的にどうかとか、他の話に比べてどうなってるかということはおいといても、このひとつひとつの話が面白く楽しめる。しかもはじめに書いたような「名訳」なので、その語り口にも読んでてノッていけるんやな。
最初の「三つの林檎の物語」は、王様が持っていた林檎をお后にあげて、それが回りまわって王様のところにもどってくる。それがお后の不実の証拠となるのだけれど、そこにも思い違いがあって・・という、どこかで聞いたような話。
「せむしの物語」はもっとよくありそうな話。
仕立屋の夫婦が町を歩いていたせむしを家に招いて、食事を振る舞う。大きな魚を無理矢理に食べさせると、せむしは魚の骨をノドに詰まらせて絶命。
さて死体をどうしたものか。考えあぐねた夫婦はユダヤ人の医者の階段に寝かせておく。医者が扉を開けると、階段に座っているせむしが居る。階段につまづいて、そのせむしは階段下までころがっていく。慌てて助け起こすと、すでにこと切れている。あたりまえやわな。
さて困った医者は、その遺体をよその屋敷の台所にこっそり置いていく。そこで台所番が、せむしに気がついて、さては泥棒とこづくと、息絶えてしまう。
台所番は家の外に死体を置いておくと、通りかかった仲買人が、じゃまなやつとばかりにけりを入れる。するとせむしはそのまま倒れて死んでしまう。
今度は通りで、人前での出来事なので言い訳もなにもできず、仲買人は判事のところへ。言い訳も聞かれず、仲買人は絞首刑になりそうに。
と、そこへ「いや実はそのものを殺したのはわたくしで」と、台所番、医者、仕立屋が次々と申し立てて、刑場は大混乱。
ついに大王が出てきて、それぞれの話を聞くことに。ということで話がどんどん広がっていくのであります。
なんか落語かなにかに出てきそうな話ですわな。もう書く余裕もないけど、この「われこそ下手人」と申し立てるそれぞれが語り出す、体験談(不思議話)も、どこか落語調であったりするのだな。
それを研究して、何か体系立ててルーツを探る、というのは学者さんがやってくれることで。一読者であるワタクシはただただ話の流れに身を任せ、ぐははふほほと楽しんでしまうのであった。
それにしても、どの話も今読んでもとても面白い。それに表現も古くさくない。バラエティに富んでいて、「あ、どこかで聞いたような話」というのも多い。
というか、話を紡いでいくと、こういうことになるのかなあという感じ。つまり、同じような話をみんな想像するのかなあということ。
どこかで聞いたような話、ということは、誰もが考えそうな話でもあるのだな。で、いまでもよく読むような話やなあ、と思うということは、この時代、この古典が書かれた時代から今まで、人間の「話の楽しみ方」はそんなに変わってはいないのかなあという気もするのだ。そうすると「物語の進歩」というものは、この何10年か何100年かの間に、どれくらいあったのかなあ、という思いにとらわれたりするのだな。
ま、進歩がどうとかいうこともあるけど、読んでて楽しければそれでいい、という思いもあるんですけどね。だから、新しいものを読んでいけばそれでいいという気もするけどね。
でもたまにこういう古典を読むと、なんかいつも読んでる「面白いなあ」っていう物語の大もとに当たったような、ちょっと得をした気分にもなるんですけどね。だから古典はやめられないのか。
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