【優しくって少しバカ】
いつのまに、あんなに高くなったんだろう。
背の高い樹々に囲まれた狭い空を見上げ、さくらは思った。
9月。
暦の上ではもう秋で、空はもう夏の頃のそれとは表情を変えているのに、どこかにいる小さなひとがボタンをひとつ掛け間違えたらしく、暑さだけは真夏の頃と
同じくらい厳しい日だった。
この山の渓谷でさえそうなのだから、街の中はもっとひどい暑さなのかもしれない。
さくらは、滑らないように足元の岩にそっとひざまずいた。
深く済んだ湧き水。
その水を上から覗いた。
鏡のような水面に、笑顔が綺麗に映っている。
手を差し込むと、水面が揺れ、その自分の顔がゆがんだ。
「つ、め、たーっ」
とうれしそうに呟き、すくった水を口元に持ってきてごくごくと飲んだ。
おいしさに満足した表情を浮かべもう一度大事そうに水をすくって、それからゆっくりと立ち上がった。
振り返り、数歩先にある目標へ笑顔を向ける。
「はいっこれ、小狼くんのぶんっ・・・」
「えっ、おれは自分でわああっっ」
ぬかるんだ泥にすべったさくらを抱きとめた小狼の上に、時間差で湧き水がバシャンと上から降ってきた。
「あう〜ごめんなさい。冷たくっておいしいから、つい」
「・・・冷たさはよくわかった」
小狼はぶるぶるっと頭を振って、髪の毛や顔についた水を吹き飛ばした。
あわてて首にかけたタオルを差し出したさくらに、いいと断ってから、小狼はため息をついた。
「少しは落ち着いたか?」
「うんっ。おいしかったあ。お水の湧いている場所がわかるなんて、ほんとうに小狼くんってすごいよね!」
「水脈というのは、強い気が流れているんだ。おまえもこの気配を覚えれば、簡単に見つけられる」
「ほえ〜そうなんだ。そういうものかなあ」
残暑の中、はしゃぎすぎて熱中症になりかけたというのに、まったく水脈の気配には興味なさそうなのんきな返事。
小狼はだいたい、とさくらをにらんだ。
ここから先は、毎度毎度同じ言葉の繰り返しだ。
さくらは、やってしまったという顔になり、肩をすくめた。
「だいたいお前は、いつも張り切り過ぎなんだ。1番に頂上に登って、みんなのために見晴らしの良い場所を確保しようという心がけは素晴らしいが、その前に自分が倒れそうになるってどうゆう・・・」
普段無口な小狼が一番饒舌になるのは、さくらへお説教をかますときだ。
お隣の少々お節介なおばさんと良い勝負だ、とさくらは心の中でいつも思っている。
さくらは芝居じみた大きな動作で、あらぬ方向を指差し驚いたように眼をまるくした。
「あっ!ねえねえ、いまね、森のほうからなにか高い声が聞こえたよ?」
「モズの高鳴き。秋を告げる鳥だ」
「ふわ〜鳥にも詳しいんだね」
「習性など一通り勉強している。・・・で、いつも突っ走るのはいいが、その先を考えないと」
「あれ!なんかすごい良い匂いがするよね」
「あそこにあるサラシナショウマ。若葉は食べられるんだ」
「ほえ〜小狼くん、すごいすごい。山の神様みたいだね」
「微妙な褒め方だな。おだてたってダメだぞ、温暖化のせいで夏が終わっても何が起きるか分からないんだから、おまえもいつも気を緩めずに・・・」
「はい!わかりました。ちゃんと反省してますっ」
「本当か?」
「本当だって。あまり怒ったらおなかが空いちゃうよ。はい、ビスケット」
「・・・なんか誤魔化し方がうまくなったような・・まあいい。ありがとう。2枚とも?おまえの分は?」
「1つは、そのコのだよ」
「・・そのコ?」
小狼は、さくらが指差しているところを見た。
自分の足元だ。
そこに、野生の仔ザルが1匹座っていた。
小狼はその仔ザルと眼が合い、「わあっ」と飛び上がった。
「きいっ」と驚いて仔ザルも鳴いた。
「気付いてなかったの?小狼くん、お小言で頭がいっぱいだったんだね」
とさくらに笑われ、小狼はムッとした。「殺気がないから気付かなかっただけだ」と答えてから、急に顔色を変えて仔ザルを見直した。
「こいつ、気が弱い」
「元気がないよね・・・」
とさくらも心配顔でかがみ、仔ザルの顔を見る。
仔ザルは「ききい」と可愛く威嚇したが、それ以上の元気は無い。
母親とはぐれてしまったのか、別の理由があるのか、とにかく少し衰弱しているようだった。
さくらは、背中のリュックからあわててバナナを取り出そうとした。
リュックを降ろし、ボタンを開くと・・・
「ぷは〜〜〜!こにゃにゃちわーー!」
「ケロちゃん!」
「ケルベロス!」
「山の空気は澄んどるなあ。さすがおいしいわ」
「・・・おまえがおいしく味わったのは、空気だけか?」
「え?ケロちゃん、まさか・・・」
さくらが素早くケルベロスの入っていたリュックの中をさぐると、バナナの皮やお菓子の残骸が出てきた。
「安心せえ、お弁当には手ぇつけとんさかい」
「・・・ケ〜ロ〜ちゃ〜ん?」
「気をつけろ、食べ物の恨みは怖いぞ」
怒りに笑みさえ浮かべ、握りこぶしを震わせているさくらの後ろから、小狼がケルベロスに囁いた。
ケルベロスは、慌ててさくらの拳を制した。
「待て。さくら、いまあの仔ザルになんかやろうとしとったんちゃうんか?」
「だあかあらあ〜、それを〜ケロちゃんがあ〜」
「お、おい、小僧。おまえが一緒におって、そんなこと許すんか」
さくらの鉄拳から逃げつつ、ケルベロスは小狼に振った。
振り向いたさくらが見たものは、小狼の苦々しそうな顔だった。
「・・・今、言おうとしていたところだ」
足元の仔ザルが、また「きいい」と小さく鳴いた。
「さくら」
小狼から名前で呼ばれ、さくらは身を構えた。
こういう時は、なにか大切なお話があるのだ。
「なに?」
「こいつは、野生の動物だ。人間が餌をやるのは良くないんだ」
少し予測していたさくらは、でもでもっ、と反論した。
「よく観光地でおさるさんに餌あげてるよね?」
「だーからサル被害が問題になっとるやろ〜?」
ケルベロスが呆れた声を出す。
あ、そっか、と少し引いたさくらに、小狼は言葉を続けた。
「猿だから、ていう理由だけじゃなく、こいつが『子供』だからだ」
「子供だから・・?」
「いま、俺たちがこいつに餌をあげたら、もうこいつは他の猿や、もしかするとどこかに居るかもしれない母猿から餌を受け取らなくなるかもしれないんだ。そうなると・・・わかるだろ」
小狼はゆっくり、言葉を選びながら説明した。
さくらは仔ザルと小狼の顔を交互に見ながら、瞳を揺らした。
仔ザルはさくらの顔を見て「きいい」と鳴き、ゆっくりさくらの足元にやってきた。
「どうしたの?」
と、さくらが視線を合わせるように地面に座ると、よちよちとその膝に登り、ジャージをはいた太ももに甘えるように頭を摺り寄せた。
さくらは、眉根を寄せた。
そんな可愛いしぐさをすればするほど、胸をしめつけられる。
さくらも、ただその場で可愛がるだけで野生動物に餌を与えることが、後々この仔ザルを苦しめることは理解できていた。
だからこそ、辛さが心に滲んでくるのだ。
「・・・だったらもう、あまり構わないほうがいいよね」
「・・・そうだな」
さくらは仔ザルを太ももから起こし、抱いておろした。
仔ザルは「き?」と不思議そうに小さく鳴いたが、素直に地面に降りたった。
「ごめんね。わたしより、ママやほかの仲間のおひざのほうが気持ちいいよ」
「きいい〜〜」
さくらの言葉がわかったのか、さくらの追い立てるような手の動きにおびえたのか、仔ザルは元気なさそうに森に向かって歩き出した。
小狼はただ腕組みしてその様子を見守っている。
さくらの気持ちを考えて、その判断を彼女に任せたが、むしろ自分が「餌をやるな」と強制していたほうが良かったのかもしれない。
髪の毛で見えないが、碧の瞳を揺らしながら仔ザルを見つめているのだろう。
小狼はその横顔を見ながら、少し悔やんだ。
仔ザルの姿が見えなくなると、さくらは無言でリュックを背負った。
「な、なあ。そろそろどっかでお弁当食べたほうがええんちゃうか?」
空気の重さに耐え切れず、ケルベロスがさくらに言った。
「お弁当?うん・・・ケロちゃんに全部あげる」
「あげるって、さくらは?」
「食べないよ。わたしだけおなか一杯になるなんて出来ない」
「ええ〜」
お弁当をやると言われ、普段なら喜ぶところのケルベロスもさすがに困った顔になり、助けを求めるように小狼の顔を見て、目配せした。
「さくら」
小狼は再び名前を呼んだ。
さくらは小狼にぎこちない笑顔を浮かべてみせた。
「大丈夫、今日だけだから。このままだと、わたしの気持ちが治まらないっていうだけで・・・ごめんね、でも気にしないで」
小狼はそのさくらの笑顔をじっと見つめた。
さくらはその視線を遮るように、もっと明るい声を出した。
「じゃあそろそろ行こっか。もうすぐみんなと合流できる頃だよね!」
「で、わいは?」
「ケロちゃんは人の居ないところについたら、またリュックから出してあげる」
「せやな。ほなまたちょっと失礼」
ケルベロスがごそごそとさくらのリュックに潜り込もうとした時、小狼が口を開いた。
「待て」
さくらとケルベロスは、小狼の顔を見た。
「なに?」
「なんや?」
「忘れものだ」
「何を忘れたの?」
「さっきの猿に取られたものがあって」
「うん・・・?」
「それを取り戻してくる」
くるっと森のほうへきびすを返した小狼の後姿。
さくらは、きょとんとしてしまった。
仔ザルは何も持ってなかったように見えたが、気付かない間に、鍵とか小銭とか小さなものを取られていたのだろうか。
いや、小狼がそんな隙をつくるなんて普通に考えたらありえない事だった。
「何を取られたの?」
さくらの問いに小狼は立ち止まり、一瞬さくらを振り返ってからまた前を向いた。
「――――おまえの、ひざまくら」
さくらはその答えにポカンとして、ケルベロスと顔を見合わせる。
仔ザルがさくらの膝に頭を置いたのが、小狼には『膝枕』ということになるらしい。
「あれやっていいのは・・・俺だけだから」
とぼつりと漏らし、駆け出した。
さくらはどんどん遠くなってゆく小狼の背中に叫んだ。
「で、でも取り戻すって、どうやって―――?」
小狼は、振り返らず怒ったように叫んで答えた。
「どうにかして!!!」
その言葉が言い終わらないうちに、小さく身を屈めて飛び、スっと樹の上に姿を消してしまった。
さくらは、頬をぽうっと染めた。
「小狼くんったら・・・そんな大したモノじゃないのに」
「しかし小僧、自分のリュックしっかり手に持っとったな」
ケルベロスはにやりと笑う。
きっと、仔ザルに姿を見られないように先回りして食べ物を置いてくるとか、そういう感じで首尾よくやってのけるつもりなのだろう。
さくらは心底安心したような、ほっとした笑みを浮かべた。
「優しいよね、小狼くんって・・・」
はにゃ〜んと頬をおさえ、いつものように眼がハートになっている。
ケルベロスは、けっと鼻でわらった。
ひざまくら取り返すやて、と呟いた。
そして、さくらのリュックの中に半分顔を沈めて、ふわあとあくびをした。
「甘いんか優しいんかしらんけど、やっぱり・・・とことんアホやな」
さくらは、ケルベロスの言葉に先ほどの小狼を思い浮かべながら笑った。
「アホなんかじゃないよう」
可愛くて仕方ないなあという顔だった。
「小狼くんは、オバカさんなの!!」
さくらに言われたらおしまいやで、というケルベロスの呟きは、都合のよいさくらの耳には入ってこなかった。
おしまい★
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