【Flashback】
小雨が降ってきた気がして、さくらは頬に手をやった。
でも気のせいだった。
頬にあたる、湿気を含んだつめたい風のせいだった。
さくらは体育祭の練習中で、グラウンドに立っていた。
午前中の授業をつぶして、さくらたちの学年は全員で練習に参加していた。
10月に入った途端、秋めいて俄然涼しくなってきた。
9月の終わり、練習を始めた頃は暑くて仕方なかった長袖の体操服だが、今日は物足りなささえ感じる。
「次は障害物競走の集合だって。さくらちゃん、選手じゃない?」
「あっ、うん。どこに行けばいいのかな」
「さっきのリレーと同じ場所みたいだよ。って、リレーも出てたんだよね?さすがさくらちゃん、過密スケジュール」
「そうなんだ〜。なんか1人でワタワタしちゃって」
さくらは奈緒子に苦笑いを浮かべる。
兄の桃矢いわく「それしかない」ほど秀でたさくらの運動能力は周知の事実だ。
さくらは大概1人1種目出たらよいはずの選択種目をいくつも出る羽目になっていた。
頼まれると断れないさくらのことを、おひとよし、と小狼に鼻でわらわれた。
指示されたとおり、さくらは障害物競走の入場門に整列する。
が、待っていてもなかなか先生から入場の指示が出ない。
「どうしたんだろうね」
「先生、あっちのほうをずっと見てるわ」
練習の総指揮をとっている体育教師は、グラウンドの生徒たちではなく体育館のほうを見ていた。
障害物競走に使う平均台やマットやらを、男子が体育館から運ぶ手はずになっているのに、どうやらそれが遅れているようだった。
「ちゃんと話聞いてたのか、あいつらは!」
と、その体育教師が苦々しく吐き捨てた。
すると、体育館のほうから別の先生が姿を現し、グラウンドの端まで来てから叫んだ。
「すみませ〜〜ん。平均台を〜〜運ぶはずだった生徒がぁ〜、プールで〜濡れちゃいまして〜〜〜」
いつも間延びした口調で授業をする社会科の先生だ。
普段よりさらに語尾を延ばして、しかしとても不可解な事を言った。
プールなど9月の最初の週にとっくに閉鎖してしまい、入り口にも鍵がかかっているはずだったからだ。
体育教師だけでなく、待ち時間を持て余していたさくらの学年の生徒全員……。
「はあ???」
プールで濡れたって一体何をやってるんだ、と体育教師は訝しそうな表情のまま体育館へ走ってゆく。社会科の先生も、手招きしつつ再びプールのある体育館のほうへ戻っていった。やがて二人とも体育館の玄関側へ姿を消した。
さくらは、不思議そうに先生たちが慌てている様子を眺めていた。
「誰が濡れたんだろうね。ふざけて水かけあいこしたのかな」
と傍にいた千春から話しかけられ、
「でも、ふざけて今日みたいな寒い日に水で遊んだりするかなあ」
とさくらは首をかしげた。
「やっちゃうんだよ、それが。男子って」
子供なんだからーと、千春は、濡れた生徒が男子だと決め付けている。さらに、
「なんかそんな馬鹿なことするの、山崎君じゃないかって気がしてるんだけど」
と千春がため息まじりに苦笑いを浮かべた。
「山崎君って道具係りだったわよね。だったら体育館に居たはずだし、千春ちゃんの予想、あたってるかもしれないわ」
と、やってきた利佳も笑いながら冗談まじりでそう返す。
「やだ〜。でもさ、李君も道具係りだよ」
「ほえっ。そうなの?……あ、あ、そういえば、今朝『占いで水難の相が出た』ってすごく難しい顔してた」
「あはは、じゃあきっと二人でプールに飛び込んじゃったんだよ」
「まさかー!」
先生たちが全員体育館のほうに気をとられているグラウンドでは、もう体育祭の練習そっちのけで、生徒たちは好き放題遊んだりお喋りしたり、鎖の外れた仔犬のようにじゃれあい始めた。
そこへ、男子生徒の1人が息せき切って体育館のほうから走ってきた。
「おおーい!プールに居たヤツ、C組の山崎と李たちらしいぜ」
「ほんとか?」
「ああ。最初、小学生の子がプールで遊んでて、それにつられて濡れたとかなんとか…。よくわかんねーけど、先生たちがそう話してた」
千春はそれを聞いて、思いっきり嫌そうな顔をした。
「やあっぱり〜〜。なにやってんのよ、もう山崎君ったら!」
「小学生の子が、どうしてプールにいたんでしょうか」
「つられて濡れたってことは、プールに落ちそうにでもなったのかしら」
さくらは、眼をぱちぱちしながら知世に確認した。
「今、李って言った?小狼くんのことだよね?」
「確かに、そうおっしゃいましたわね」
知世もきょとんとした顔をしている。
気付くと、グラウンドに居た先生が全員、体育館の方へ行ってしまっていた。
グラウンドには生徒だけがぽつんと置き去りにされている。
「……体育祭の練習はどうなっちゃうんだろう」
「本当ですわね」
「わたしも行ってみようかな、プールのほう」
とプールで濡れたという小狼が気になったさくらが呟いた。
障害物競走の集合のことはもう誰も覚えてなさそうだった。
すると千春も同意した。
「私も。ぜひ山崎君に話を聞きたいわ」
と鼻息あらく拳を握る。悪戯をした子供を叱る母親のようだ。
よし、行こうとその千春に手を取られて、引っ張られるようにさくらは歩きだした。
ここにいても何も変わらないですし、と知世達もついて来る。
「もし、山崎君が李君を巻き込んだのだったらごめんね」
「そんな。千春ちゃんが謝ることじゃないよ」
「李君にカゼでも引かせたら、私が山崎君におしおきするから!」
「ううん、小学生が居たっていうし、何かあったんだよきっと」
二人の会話に、奈緒子や利佳がクスクスと笑う。
とっても仲がいいよね、良いことも悪いことも一緒にしちゃうんだからと屈託が無い。
遠い昔もこういうことがあったなあ――――
さくらはほのぼのと思い出していた。
小学生の頃、夏休みの終わりの日。
まだクロウカードをどっちが集めるだのライバルだの弱いだの、小狼がツンケンツンケンしていた頃だ。
『水難の相』が出ていると占いで知り、ああなることは十分予測できた筈なのに、身を呈してさくらが川に落ちそうになったところを助けようとしてくれた。
ほとんど反射的に手を伸ばしてくれた小狼の顔。
その光景がチカチカと眩しく脳裏によみがえる。
どうしてライバルであるわたしに手を?と不思議な気持ちと同時に、小狼くんは、やっぱり思ったとおりの男の子だったという嬉しい気持ちと、両方浮かんだ瞬間。
(結局ふたりともずぶ濡れになっちゃったけど)
昨日のことのように思い出しながら、笑みが漏れる。
人のことを、お人よしだといつも哂うが、小狼だって十分すぎるほどお人好しだ。
友人や知り合いではなくても、いつもさりげなく手を差し伸べている。
その結果、いつも自分の身を削る羽目になるのだ。
プールで濡れているらしいけれど、きっとあの時と同じようなことが起きたのじゃないかとさくらは想像した。
(だとしたら、小狼くんらしいな)
そんなことを考えながらグラウンドの端まで歩いて来た時。
数十メートル離れた体育館の方から、さきほどの体育教師がさくらの方へ向かって怒鳴った。
「木之本!保健医の先生が呼んでる。急いで体育館の玄関に来い!」
いつも怒った感じで話す先生だったから、さくらは怒鳴られてびっくりこそしたが焦りはしなかった。
「はーいっ」
「何でしょうか?」
「わかんない。ちょっと行ってくるね」
「私たちも後で追いつくから」
「うん、ありがと」
さくらは、今にも雨がおちてきそうなくらい黒くなった雲の下、体育館に向かって走り出そうとした。
すると不意に周囲から黄色い野次が飛んできた。
「たぶんアレだな」
「アレしかないな」
「さくら、濡れて寒いんだ……俺をあたためてくれ……」
「だめっ、しゃおらんくん、ここはがっこうだしっ」
「んもーあついあつい!」
「私が暖めてあげるわよ李君、きぃーーーっっ!」
似てないが、わざわざ小狼とさくらの声色を真似て冷やかす子たちや、ロコツに嫉妬を口にする子。
(ほええ〜〜///なんでそうなるの〜〜)
ただ体育教師がさくらを名指しで呼んだだけなのに、皆、想像力がたくましい。さくらは顔を赤くして、その野次を振り切るように体育館にむかって駆け出した。
「こらあ!さくらちゃんをからかわない!」
千春が近くにいた男子に注意してくれているのを背中で聞きながら、とにかくさくらは頬を必死に手で抑え走り続けた。
そのすぐ先の角をまがると、体育館の玄関だ。
そこに小狼もいるのだろうか。
濡れたっていってたけど、ちゃんと着替え持ってるのかなとそんなことを考えながら、白いコンクリートの角を曲がった。
すると。
さくらは息をのみ、言葉を失った。
こんな光景を想像もしていなかったからだ。
まさしくそこは「事故現場」だった。
救急車とパトカーがいた。
救急車は後部ハッチを閉め、サイレンを鳴らしまさに病院に向かって出発しようとしているところだった。
来る時にもサイレンが鳴った筈だが、友枝中学校は病院が近くにあるのでサイレンなど聞きなれていて意識にひっかからなかったのだろう。
パトカーは赤色燈をくるくる回しながら停車している。
体育館玄関の階段では、警官らしき大人の人が、生徒と話をしている。バスタオルで体を拭きつつ対応しているのが、山崎だ。
その横−―――
階段に座り込み、保健医が心配そうにつきそう生徒。
それが小狼だった。
山崎が、小狼の頭をタオルでワシワシ拭いてやり、保険医の先生がさらに数枚バスタオルをもらって小狼の体に巻きつけてやっている姿がさくらの目に映った。
小狼は黙って素直に世話を焼かれている。
そんなの、普段の小狼らしからぬ姿だ。
バスタオルにくるまるようにして階段にうずくまり、保健医の言葉に頭をただ縦か横に振るだけ。
そんな光景をただ眼にうつしながら、さくらは思わず立ちすくんでいた。
さくらに保健医が気付き、小狼を気にしながらも静かにこちらへ歩み寄ってきた。
「ああ木之本さん、来てくれたわね。さっき起きた事は、知っている?」
「は、はい、少しだけ聞きました。あの……」
「簡単に言うと、プールに落ちた小学生を、山崎君と李君が飛び込んで助けたのよ。小学生の子は怪我もしてないわ。念のために病院で検査してもらうけれど」
「そうだったんですか……」
「実はね……もちろん李君もプールの水で濡れてしまったんだけど、体を拭いても熱いもの飲ませても震えが止まらなくて。体温も低いままだし」
困ったように話す保険医の言葉に、さくらも同じように背筋が凍りついた。
どういうこと?どういうことだろう?
「それで、病院に行く様にすすめたんだけど、李君は頑として大丈夫って言うの。困ってたら、山崎君がね、あなたを呼んできてくれって」
「わたしですか?山崎君が?」
「ええ。体育祭の練習中だからとはばかったんだけど、どうにも李君の様子がおかしいし、山崎君はとにかく木之本さんをって一点張りだし……あっ」
そんなにプールの水が冷たかったのだろうか。
保険医の先生の話がまだ終わらないうちに、さくらは小走りで小狼のそばへ向かった。
確かに小狼は他の子よりも寒さに弱い。
けれど、顔色まで悪くなったことなんて今までなかった。
顔を膝の間にうずめている小狼の隣に、さくらもしゃがんだ。
小狼くん、とさくらが名前を呼ぶと、小狼は伏せていた顔をゆっくりあげた。
保険医の言ったとおり、かすかに震えていて顔色があおざめている。
さくらは、衝動的に小狼の肩に手を添えた。
「大丈夫?」
さくらが顔を覗きこむと、小狼はさくらを見て眉間に皺を寄せ、一瞬険しい顔をした。
さくらは、何でもない、とか、いいから体育祭の練習に戻れとか、いつもの様に威張って命令形でさくらをたしなめる言葉を期待した。
しかし、次の瞬間、さくらは小狼に両手首を握りしめられていた。
手をつなぐとか仲良しな感じではなく、小狼はまるで犯人を捕らえるように無言でがっちり手首を掴んだ。
小狼の小さな震えがその手首からさくらのからだに直接伝わる。
手首を掴んだまま再びうつむいた小狼の、その唇がかすかに動いた。
「……似てたんだ。プールに落ちていく子が」
「誰に?」
「おまえに」
さくらにしか聞き取れないほど小さな声だった。
小学生とわたし……とさくらは考えた。
顔か、体型か、雰囲気か、何が似てたのだろう。
そしてそのことと、小狼がこんなに体を冷やしていることと、何の関係があるのだろう。
手首を握られたままさくらが途方にくれていると、小狼がさらに小さな声でこう言った。
エレベーターで闇に落ちていった、あの時のおまえに、と。
それを聞き、さくらは眼を見開いた。
「しゃおらんくん――――」
あの日、上からさくらを見下ろしていた小狼の顔が脳裏に浮かぶ。
眼を大きく見開いてとても痛そうな顔をしていた。
きっとあの時と同じような顔で、小学生の子を助けたのだろう。
その子に、あの時の自分を重ねて。
さくらは、膝立ちになり、思わず横から両腕で小狼の背中を抱きしめた。
勝手に体がそう動いていた。
「やった!やっぱり『あたためてくれさくら』だった!」
「せんせー、学校であんなの許していいんですかあー?」
遠巻きに見物していた外野たちから、にわかに歓声が上がった。
しかし、次第にトーンダウンしていき、やがて口を閉ざしてしまった。
いつもはそういった野次に対して冷たくあしらう小狼や、赤くなってテレ笑いするさくらの、いつにない真剣な表情や深刻な雰囲気に気圧されたのだった。
大人たちのボソボソという話し声だけが地を這っている、静かな空間。
さくらの肩に額をおしつけている小狼が、押し殺した声を出した。
「……俺……」
小狼はまだ震えが止まらない。
「……また何の力も使えなかった……あの時と一緒だ」
「大丈夫だよ、魔法つかわなくっても、小狼くんはちゃんとその子を助けられたんでしょう?」
懸命なさくらの言葉をさえぎるように、小狼はうつむいた頭を横に振った。
「やっぱりあと数センチ……手が届かなかったから」
ああ。
さくらは瞼をぎゅっと閉じた。
最後は唇を噛み締めたせいで声にならなかった小狼が、何のことを言っているのか、ようやく合点がいったからだ。
そんなこと。
そんなことで、自分を責めているの。
ずっと自分を責めてきたの。
だからそんなに震えているの。
だからそんなに蒼い顔をしているの。
「でも……でも、その子プールには落ちちゃったけど、全然たいしたことないって先生も言ってたし、それに、それに……」
さくらは、そこまで言って言葉に詰まってしまった。
何という言葉をかけたらいいのだろう。
わからなくて鼻の奥がツンと痛くて、でもただ小狼の震えを止めてあげたくて、さくらはただ小狼の背中を抱きしめつづけた。
「……で。どういうこと?」
ふたりを見守っている山崎の隣に千春と知世が近づいてきて囁いた。
「そもそも僕が最初に見つけたんだよ。どっから入ってきたのか、小学生がプールの水の中覗いててさ」
居合わせたクラスメートがその小学生に声をかけたら、びっくりしてその子バランス崩してしまったんだ、と山崎は説明してくれる。
「僕たち何人かで急いで入り口の柵をよじ登ったんだ。そしたら、遠くにいたはずの李君がものすごい勢いで後ろから飛び込んできて、あっというまに僕らを追い越して……」
「で、李君がひとりで助けたのね」
「そ。僕、ただプールに浸かって寒かっただけ。あはは!」
「そんなとこだろうと思ったけど。でもどうしてさくらちゃんを呼んだの?」
「李君の様子がいつもと違ったからさ。木之本さん以外に李君をあんな風にしちゃう要因なんて他に思い当たらなかったんだよ」
「なるほどね。でもさくらちゃんとプールの小学生と、どういう関係があったのかしら」
そこまで聞いて、隣にいた知世が静かに口を挟んだ。
「おそらく、李君は見てしまわれたんですわ」
「何を?」と山崎と千春が声をそろえた。
「あの時の、フラッシュバックを」
あれからもう3年ほど時が過ぎた。
それなのに、苦々しい想いがいまだに小狼の中に残っている。
知世は切ない想いで、瞼を閉じた。
体育館の横に落ちている枯葉がかさかさと音をたてる。
あの日、デパートに続く街路樹にはもっとたくさんの落ち葉が敷き詰められていた。
まだ小学生だった秋、ふたりでエレベーターに閉じ込められ、闇に落ちかけたさくらが『浮』をさくらカードに変えてピンチを脱出した、あの日のことだ。
さくらにとってみれば、あれは小狼が初めて「さくら」と呼んでくれたという意味で大切な思い出になっていた。
その後、そっと抱きしめられたところなど、思い返すたびに甘酸っぱくなるワンシーンだ。
が、小狼にとっては、そうではなかったのだということを、さくらは今初めて知り大きな衝撃を受けていた。
あの時、指が数センチ届かなかったことが小狼にとってこんなに大きな闇になっているなんて思いもしなかったことだった。
本当に、想像もしていなかった。
さくらは胸がズキンと音を立てて痛んだ。
さくらはひたすら小狼を抱きしめ続けた。
上手い言葉が見つからない。
でも。
それでも。
さくらは唇をひらいて息を吸った。
「あの時……」
野次馬だけでなく大人たちや先生まで、いつのまにか口を閉じてしまっている。
さくらは小狼の耳元で、諭すように囁いた。
「小狼くんの手、わたしには届いてたよ」
ほんとだよ――――とさくらは瞼を伏せる。
確かにガタンと床が傾いた瞬間はちょっとびっくりした。
叫びもした。
でも、闇も落下も、不思議ともう怖いなんて思わなかった。
あのエレベーターという狭い空間に、他の誰でもない小狼が居たからだ。
思えば、いつだって最強の勇気はそこから沸いてきた。
「……小狼くんがわたしの名前を呼んでくれた時にね、小狼くんの指がわたしを引っ張りあげてくれたんだよ。ただ小狼くんの居る場所へ、小狼くんの隣に戻りたくて、そうしたら『浮』を自然に使ってて……」
あの初めて『さくら』と呼ばれた時の幸せな気持ち、忘れない。
まだ恋に気付いてなかった頃だったけれど、好きなひとが自分を呼ぶ声が持つ大きなパワーだけはしっかりと感じていた。
どうしてあの時、夜に電話までしたのに、それを正しく伝えられなかったのだろうと本当に悔やまれる。
「誰かを助けたり救ったりするモノって、眼に見えないものも沢山あるんだなって思ったんだ」
さくらは小狼の背中に回した手を、ぎゅうと握り締めた。
「あの時、それをちゃんと上手に言えなくってごめんなさい」
さくらは小狼に心から謝った。
小狼はさくらの言葉が聞こえているのかいないのか、反応は無い。
「あれ、ごめんなさいじゃないのかな。そんなにわたしのこと大切に考えてくれててありがとう、かな」
とさくらは呟く。
そしてテヘっと赤くなった。
わたしのこと大切に、なんて。どうしてそうなるんだと呆れられそうだ。
自分で言うと、ちょっと自意識過剰っぽくて恥かしくなった。
けれど今、少し小狼の肩が揺れた。
気付けば震えは止まっている。
これは自分の言葉にクスっと笑ったんじゃないかという気がして、さくらは一気に畳み掛けた。
「そうだっ、これからは、エレベーターにもプールにも1人で行かないよ」
さくらはそれまで囁くように喋っていたが、思わず地声に戻っていた。
「小狼くんが心配なら、プールには絶対浮き輪持っていくし、穴とか工事現場とか落ちそうなところには近寄らないし」
なにか方向が間違ってきた感じもするけど、気にしない。
小狼は無言のまま身動きしなかった。
これでもまだ小狼の心は戻ってきてくれないのだろうか。
「えっと、じゃあデパートではエレベーターじゃなくてエスカレーターを使うことにするよ。もちろん、黄色い所は避けて足元には気をつけて身を乗り出さないようにしてっ」
まだダメかな?
「もーっ、だったら、これからは二人きりの時だけじゃなくっても、人ごみのなかでも学校の中でもおにいちゃんの前でもいつもいつもいつでも手を繋いでおこうよっ。そしたら、わたしどこにも落ちたりしないから。……あっ、別にわたしがそうしたいからってだけじゃないよ、そりゃいつでも手をつなげるなんてステキなことだけどっ」
すると。
不意に小狼は顔を上げ、さくらから体を離した。
「……なに言いだすんだ、おまえ」
いつもの小狼だった。
笑みのまざった呆れ顔。
さくらは大きな碧色の目で小狼を見つめ、ほんと、なにを言ってるんだろと呆然と答えた。
「良い案だが、アニキの前だけは遠慮しとく」
と小狼は、少し照れくさそうな顔をした。
フッと大きな安堵感がさくらの中に押し寄せてくる。
それでやっと気付いた。
数分前から、小狼を失うかもという大きな不安に襲われていたことに。
デパートの暗いエレベーターの中に、『あの日』の小狼はまだひとり佇んでいたのだ。
その闇に、小狼が囚われたままにならなくて、本当に本当によかった。
ふたりはしばらく無言で見つめあい、それから、小狼は両手で固くさくらの手を握り締めた。
「次は、もう俺は絶対、おまえの手を離さない」
真剣な鋭いまなざしに、さくらは小狼の想いの強さを知り、胸をいっぱいにした。
「うん。ちゃんと捕まえてね。わたしもせいいっぱい小狼くんに手を伸ばすから」
そう答えると、小狼はやっと、やっと表情を和らげた。
「わかった。ありがとう」
「ううん、わたしも、ありがとう」
それまで必死だったさくらが、へにゃっと笑ってみせると、小狼は急に我に戻ったのか、とてもバツの悪そうな顔をした。
さくらはすっかりニコニコとして言った。
「わたしね、なんだかまたさらに、小狼くんと仲良くなれた気がする!」
「そうか?だったら、まあ、いいか、な……」
まあいいか、というのは、情けない姿を晒した事に対する自分なりの精一杯の譲歩だ。しかしさくらは別の意味にとり、少し不満げに首をかしげた。
その様子が可愛くて、小狼はさくらに両腕を伸ばした。
そうして今度は、小狼がさくらをふわっと抱きしめた。
その小狼のからだは、暖かさを取り戻していた。
次の瞬間。
パチパチパチパチ、……
パチパチパチパチ、……
さくらと小狼は、無数の拍手の嵐に囲まれていた。
「な、なんだ?」
「ほえ〜〜っ!」
驚いて、ぴょんと飛び跳ね離れるふたり。
黙ってなりゆきを見守っていた野次馬、先生たち、それから保険医の女性まで、みな笑顔で手を叩いているのだ。
「なんかわからんが、とにかく!」
「よかったな、李…!」
「幸せになって。ふたりとも。きっとよ」と中には涙ぐんでいるものさえいる。
「本当だわ、山崎君の言う通りね、もう正常に戻ってる」
保健医の先生は、さっと小狼の手首を握って体温や脈拍を測ると、感心した顔をした。
「こ、こんなに居たのか……!」
「全然気付かなかったよう〜」
赤くなり狼狽するふたりに、まだ拍手は鳴り止まない。
最初はワタワタしていた小狼も、なにか安心してタガが外れたのか、野次馬たちを見てふっと笑みをもらした。
さくらもその顔を見て、心から笑顔があふれ、その二人にさらに拍手が注がれ――――--それは体育館のまわりにひろがり――――
パチパチパチ……
ヒュウヒュウッ
「これは一体、なんのお祭りですか?」
消防局への連絡を終えて戻ってきた校長先生も、拍手の嵐にあたりを見回す。
救急車や警察でピリピリ緊張していた学校全体が、いつしか柔らかいぬくもりに包まれていた。
湿気た冷たい風が吹いても、小狼やさくらや皆の顔から笑顔は消えなかった。
厚いグレーの雲の隙間から、地に向かって幾筋も光が差していた。
天使のはしごだ。
秋は、夏が終わった寂しさに包まれる季節ではなかった。
それまで硬い幹の中で少しずつ少しずつはぐくんでいたものが、確かな実を結ぶ。
そんな季節だった。
■ ■ ■ ■
数日後、小狼と山崎たちは小学生からお礼の手紙を貰った。
『おにいちゃんたち、助けてくれてありがとうございました。
落ちたときすごく怖かったけど、プールの底のところで泳ぎの上手なおにいちゃんから手をつかんでもらった時すごく安心しました。大丈夫かと聞かれてうんと答えたけど、僕はおにいちゃんのほうが泣きそうだったから大丈夫かなと思いました。
プールは、今度からちゃんと夏に入ります。ごめんなさい』
『泣きそうだった』という部分を誇張して何度も何度も朗読する山崎に、寝たふりをしていた小狼はうざったそうな顔をして反対側を向いた。
おしまい☆
アニメをご覧になってない方はごめんなさい。
フラッシュバックと聞くと、エレベーターの時のことしか思い浮かばなくて。
小狼、アニメではラスト微笑んでましたけど、あの時のことはきっとトラウマになってると思うんですよね〜ヘタレだから。さくら依存症だから、また居なくなったらどうしようとか不安がいつも心の中に潜んでいるの(愛)
それをちゃんとさくらちゃんも知ったうえで、それから二人で乗り越えてほしいなとずっと妄想してて今回こんな小話になりました。
でも・・・やっぱり自分的には消化度というか昇華度7割です。難しいなあ〜。
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